当事者だけに説明の責任を負わせるだけで足りるのだろうか(制度の不備や対応不足なんかもありえる)

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たしてほしい。こうしたことが言われているわけだけど、これについては、疑惑が投げかけられている当事者だけでなく、国にも説明の責任があるのではないか。国籍のとりあつかいについて、これまでにどういったあり方がとられてきて、そこにはどういった問題点があり、これからその問題点をどのように解消してゆくのか。そういった大まかな方向性を打ち出すことがあってもよさそうだ。

 もともと、国籍はそれほど重んじられていず、戸籍のほうが重んじられていたそうだ。戦前や戦中においては、内地の戸籍を有しない者には、選挙権が与えられなかった。これは血統主義によるあり方だとされる。こうしたあり方がいまだに残存してしまっているのはいなめない。

 グローバル化している今の世界のあり方をふまえれば、これまで日本でとられてきていた血統主義民族主義を、いっそ改めるようにしてもよさそうだ。今の世界のあり方にそぐわないところがあるからである。それにくわえて、血統主義民族主義(エスノクラシー)のありかたをとるのだと、それがもとになって戦争につながりかねない。じっさいに先の大戦ではそうした原因が(主要なものとして)あげられるわけであり、その大きな負の面が識者によってさし示されてもいる。

 国籍の疑惑について、説明の責任を果たすこともいるだろうが、それはともすると、強制による暴露につながりかねない。そうした強制による暴露をうながしてしまうようであれば、差別にもなりかねないし、よからぬものである。そうした危うさが少なからぬ人たちによって指摘されている。文学についてはあまり詳しくはないのだが、島崎藤村の『破戒』なんかがぼんやりと連想できてしまいそうだ。

 疑惑があるのなら、戸籍を開示することでそれを晴らせ。そうした声が一部からあげられているわけだが、これについてはちょっとうなずきがたい。なぜ、疑惑があるからといって、特定の誰かの戸籍を開示しないとならないのか。それだったら、疑惑のいかんによらずに、すべての政治家の戸籍を開示するのでもよい。もしかしたら、隠れて、問題があるかもしれないのがある。これは、問題があるから開示できないにちがいない(問題がないなら開示できるはずだ)、といった理屈から導かれるものである。もっとも、こうしてしまうと、やりすぎであることは間違いがないが。

 血統とか民族を重んじるのではなく、どこに生まれたのかの、生まれを主とする。そうしたあり方がよしとされてもいる。これは出生地主義と呼ばれる。それにくわえて、言語至上主義として、言語による意思疎通がきちんとできるのをもってしてよしとするあり方もある。

 それぞれの親の出身国がちがうなどの、複雑な生い立ちの人は、心理的な負担が少なからずかかるものだろう。自意識の揺れみたいなのがおきてもとくに不自然ではない。そこで、自意識が揺れづらい、わりと単純な生い立ちの人とひき比べてしまうのは、公平とは言いがたい。

 いろいろな見かたがとれるだろうけど、一つの見かたとしていえるのは、負担の少ない人ではなく、負担の大きい人にとりわけ配慮できたらよいのがある。負担の少ない人を中心とするのではなく、負担の大きいであろう人に配慮するのがよい。そうしたほうが、少数者や弱者が助かるようになる。そこへ重点的に手がさしのべられればのぞましい。

 当事者による説明もいるだろうが、それとは別に、国としても、はっきりとした方向性を打ち出してもよさそうだ。大きな流れとしては、先の戦前や戦中における、外国人や他民族を極端に排斥するのをまちがったことであると見なす。そうした排斥のあり方ではなく、自由主義による市民権がとられるようにする。そうして門戸を開くようにするのも一つの手だろう。門戸を開くのはけしからんとする見かたもあるかもしれないが、開いてしまったほうが、今の日本国憲法の趣旨と整合するので、都合がよいのが一つにはある。