ゆがめられた行政を正すのはよいことではあるけど、ゆがめられた認知によっているおそれもなくはない(ゆがめられた認知による、ゆがめられた価値判断のおそれもある)

 ゆがめられた行政がある。それをゆがめられていない行政にもどす。たんにそれをしようとしているだけである。こうしたことも言われているわけだけど、そもそも、ゆがめられた行政とは何だろうか。そこがちょっと腑に落ちない点である。

 ゆがめられた行政を言うのであれば、事前に言っておくべきだったのではないだろうか。事前にもっと大々的にみなに告げ知らせておく。そのほうが、大衆を味方につけやすそうだ。そうではなく、あたかもとってつけたようにして、事後的に言っているのであれば、いぶかしいところがある。

 たんに、覇権のとり合いをしているにすぎない。こうして覇権をとり合うようにして争うのであれば、誰が覇王になるのかを競うことになる。これだと覇道になるわけだが、そうではなくて、王道とは何かをあらためて見てみることもできるだろう。

 ゆがめられた行政がのぞましくはないにしても、そうして一概に決めつけてしまうことはちょっとできそうにない。その点については、頭ごなしに決めつけてしまうのではなく、ここがまちがっているだとか、ここはおかしいだとかして、一つ一つを指し示してゆくようにする。それで議論をやり合うのがのぞましい。

 誰が覇権をにぎるのが本来のありかたなのか、といった点もあるが、それとは別に、どのような帰結がありえるのかをふまえるのがあるとよさそうだ。ゆがめられた行政の元凶とされる官僚組織において、何から何までまちがった提案が出されるとは見なしづらい。もし、何から何までまちがった提案が出されるのであれば、官僚組織を抜本的にあらためることがいる。すべてを刷新するための革命を全面的にやってゆくことがいるだろう。一部だけをあらためてもさしたる効果はのぞめないのではないか。

 覇道によるたんなる覇権の奪い合いに終わらずに、王道によってやってゆくのがあればよい。そのさい、性善説によって見るのよりも、性悪説によって見るのがいるだろう。でないと、覇権を握ることができた者が善、みたいにしてとらえられかねない。そうとは限らないのはたしかであり、覇権を握っている力ある者が、正しいことを必ずなすとは言えそうにない(むしろ逆なことが少なくない)。決定単位である有権者がいて、その意思をになうとされる代表者がいる。その代表者を頭から信頼してしまうと、専制主義になりかねない。

 ゆがめられた行政がよからぬものであり、けしからんものなのだとしても、それを改めるのが、建て前であるおそれがある。その建て前が、本当にゆがめられた行政の悪いところをあらためて、みなに益になるようにしようとするのであれば、それはよいことだろう。しかし、そうではなくて、建て前とは別に、ちがった本音をもっていることがありえる。これは性悪説による見かたなわけだけど、こうした見かたもあってよさそうだ。政治家の義があり、官僚組織の義があるとして、義は単一ではなく、複数あるのでもよい。単一になってしまうと、暴走するおそれがある。

 人間には合理性の限界があり、限定されている。どこから見ても非の打ちどころのないようなものを見いだしづらい。それがあるわけだから、できるだけ自己触発による独話におちいらないようにして、他者触発による対話がなされればのぞましいだろう。そうすることで、いたずらな分裂や敵対にいたらずに、相互の関わりが形づくれるようになることがのぞめる。一方向の押しつけではなく、双方向でやってゆく。そうして修正しつつものごとを進められればのぞましい。