政権をおとしめるべく企んでいると見なすだけなのであれば、迫害妄想におちいっているおそれもないではない(そこに目的があるのではないとして見ることもできる)

 みんなの利益につながらないことが行なわれている。一部の人たちに利益が誘導されてしまっている疑いがけっして低くない。そうではなく、ほんらいであれば、なるべくみなに利益が行きとどくようにしてゆくことがいる。そうした配慮にいちじるしく欠けてしまっているのがあるのだとすれば、そこを指摘することをせざるをえない。

 こうしたことから、疑惑をさし示す。このさい、そうして疑惑をさし示している人について、あるていど信頼をおくことがいるだろう。好意の原理で見るのである。そうすることによって、価値を共にすることができる。

 疑惑をさし示している人について、信頼をおけず、不信をもってしまう。好意の原理で見ることができず、悪意によって見てしまうことになる。こうなってしまうと、価値を共有することができないようになる。直情径行によって相手を断じてしまう。

 疑惑があったのだとしても、それをさし示すことをしない。このようであれば、権力にとって都合がよい。そうではなく、たとえ権力に煙たがられたりにらまれたりするとしても、それをいとわずに指をさす。そうして指をさすことが、毒をもつことになる。毒とは言っても、それは薬とうらはらだ。猟犬のようにして、残された痕跡をもとにして、指をさし(ポインター)、囲いこむ(セッター)。あるいは虻(あぶ)のようにしてつっつく。眠りこませないようにする。

 なにか決定的な証拠があれば、それに越したことはない。そのように言えるわけだけど、だからといって、そうした決定的な証拠がなければ、それで白としてしまってもよいものだろうか。そこが疑問である。一かゼロかの問題ではないといったふうにも見ることができる。

 疑惑をさし示している人がいるとすれば、その人が証拠をさし出さなければならない。明らかな証拠を出せないのだとしたら、疑惑をさし示すべきではない。そうした意見もある。これについては、その疑惑をさし示す人が、自分の利益を主張しているのであればそれが当てはまる。しかし、自分の利益を主張しているのではなく、みんなの利益を言っているのであれば、当てはまりそうにはない。そこのちがいは小さくないだろう。

 立証責任や挙証責任については、疑惑をさし示す人がそれを負うとも言われる。しかしこれはかならずしもそうとは言えないのがある。立証や挙証の責任については、ふつうに見れば、だれか特定の一人に帰せられるものとはいえそうにない。だれか特定の一人に帰してしまうようであれば、無理難題をふっかけてしまっているようなものだし、前提がちょっとおかしいところがある。

 前提がおかしいというのは、(立証や挙証の責任を負う)特定の一人だけが、自分の私益を肥やそうとしている、と見ることになるからである。しかし、その特定の一人だけではなく、行政にかかわるあらゆる人が、自分の私益を肥やそうとする可能性をもつ。ゆえに、特定の一人だけが私益を肥やすべく悪だくみをしようとしている、と見なすのは納得しがたい。責任のすり替えであり、非をなすりつけることになる。

 行政にかかわる誰もがみな、私益を肥やすべく悪だくみをするおそれがある。ゆえに、そうして疑われることをあらかじめ見越しておいて、そうではないと明らかにできるように、記録をとっておく。いざとなったときにそうした客観の記録を出せないのであれば、(みなが負うものである)立証や挙証の責任を無視してしまっていることになるのではないか。

 立証や挙証の責任うんぬんを持ち出すのよりも、むしろ政権は、これこれこうであるから自分たちには非がない、というべきなのではないかという気がする。記録が出せないだとか、記憶が無いだとかいって、それで非がないとするのであれば、ちょっと虫がよいことにならざるをえない。そこについてはやはり、何らかの形のある根拠や理由を示して、それだから非がない、とするのがのぞましい。これによってはじめて、何かを言ったことになる。そうした面がありそうだ。

 非がとくに無いにもかかわらず、行政をいたずらにおとしめようとして、足を引っ張っているようなのであれば、それはいただけない。そのいっぽうで、行政を神として、行政にいちゃもんをつけてくる人を悪魔と見なしてしまうのがありえる(その逆もあるが)。そうしてどちらかを神としたり、どちらかを悪魔としたりしてしまうのだと、やりすぎになる。神のような悪魔だったり、悪魔のような神だったりすることがある。そこについては、決定不能性があるのが避けづらい。国家は暴力を独占するものであり、最大の暴力組織でもある。暴力とは、うとましいと見なす者の排除にほかならない。その点も無視できないものである。

 まちがった妄想におちいっている、といたずらに決めつけてはいけない。そうした面はあるが、誇大妄想はいずれその鼻をへし折られる、といったこともいえる。これは景気の波動のようなもので、極大と極小が循環することをあらわす。景気であれば、それが浮揚しつづけるといったことは成り立ちづらい。いったん浮揚したものは、そのごに沈む。季節でいえば、春(夏)と冬との交代である。

 誇大妄想とは何かといえば、それは過剰さである。過剰さをもつがために、誇大妄想がおきて、それによって存続の危機をまねく。そうした危機とは、根も葉もないところからおきてくるものではなく、過剰な活力を処理するための必要欠くべからざるものと見なせる。

 誇大な妄想におちいっているとする論拠は何か。それは確実なものとはいえないけど、一つには、相手の全否定がある。相手をもし頭ごなしに全否定しているのであれば、そこにおいて、妄想の兆候があらわれているおそれがある。そうではなくて、逆に肯定するのであれば、相手をあるていどは冷静に見られていることにつながる。いったん肯定しておいて、そのうえでここはちがうだとか、ここはおかしいだとか、そういった批判なら溜めがあるので無難である。

 いっけんすると消極的で否定的なものではあるが、あえて自分から非や不徳を認める。そうして認めるのは、すごくむずかしいところがある。そのむずかしさがあるわけだが、それを達成することによって、膨らみすぎた誇大妄想がしぼみ、等身大に近づく。そのようなことがのぞめる。過剰な活力がうまく処理されたわけである。そうして大いに活力が消費されることによって、肺から息を吐ききったときのように、新しい空気を吸うことができる。そうではなく、息を吐ききるのを拒んでしまえば、古い空気が肺にたまったままとなる。偉そうなことを言ってしまったが、そのようなことが言えそうだ。