少数派と多数派が固定されてしまうのではなく、関係が流動的であるのが、民主主義の安定の必要条件であるらしい

 日本の各地で、デモが催された。安倍晋三首相が率いる政権にたいして、退陣を求める声が少なくなかったという。

 デモなんかをやったとしたって、それにいったい何の意味があるというのか。そうした声も、デモに参加していない人の中の一部からはあげられているようだ。たしかにそれも一理あることはまちがいない。くわえて、何か具体的な対案なり、有効な案がないにもかかわらず、ただ政権の退陣だけを求めても、説得力に欠けるといった声もあげられている。

 あらためて見ると、自分たちがよしとしている主張を、じっさいの選挙の結果に反映させるのは、一つの文化目標である。そうした文化目標があるとして、それを達成するための手段がみなに公平に分け与えられているといえるのか。それについては、完全にイエスとはちょっといいがたい。効力感をもちづらく、無力感が生じるふしがある。

 選挙では一人一票がみなに分け与えられてはいるが、それの有効性をはたしてどれくらいの人が実感しているだろうか。けっこうおぼつかないところがありそうである。そのため選挙権の棄権も少なくない。棄権するのは推奨されるものではないにせよ、それはそれで一つの合理的な行動であるかもしれないが。

 国政での小選挙区制度では、死に票が多くなってしまう。そのような負の面が言われている。死に票が多いのであれば、民意が反映されづらいということもできる。そうした点をふまえると、その負の面である、民意の反映されづらさをあらかじめ組みこんで、できるかぎり丁寧でこまかく神経の行きとどいた政権の運営がなされることがいる。理想としてはそういったことが言えるだろう。しかし現実はどうかといえば、丁寧なのではなく、力づくで押し切ってしまうようなやり方がとられているふしがある。

 デモで反対の声をあげるのなら、何か具体的な対案なり、有効な案なりを出すのがいる。こうしたことも言えるわけだが、これは保守主義の原理によっている。そうではなくて、デモをやっている人たちは、革命(革新)の原理によっていると見なせる。おたがいの文脈がちがう。そのように見なすことができる。どちらの文脈によって立つかによって、何が正しいのかがちがってきてしまうところがある。正義の複数性である。

 選挙によって選ばれたのであれば、手続き的な非があるわけではないことはたしかである。そうした非はないわけだけど、それは合法的であるといったことであり、必ずしも正当性があるのとはイコールでは結ばれない。そうした点があげられるだろう。

 決まりとして定められた法があり、そうした法にのっとって選挙がおこなわれ、それによって代表者が選出されることになる。そのさいに用いられている決まりが、いまの現実からして、そこへぴったりとそぐうものであるとは言いがたい。ちょうど(just)からずれてしまっていることがある。そのずれを無いものとしてしまうようであれば、それをイデオロギーと言ってしまってもさしつかえがない。多かれ少なかれずれがあるわけだから、そこを批判することはあってもかまわない(あったほうがのぞましい)。そうしたことが言えるのではないか。

 契約の観点から見ることができるとすれば、まずいことがおこっているのであれば、その契約を破棄することもありえるだろう。いついかなるときも契約を破棄してはならないとはいえそうにない。契約することで社会が成り立つわけだが、それ以前の自然状態があるわけであり、そこへ立ち返ることが悪といえるのかどうかは、時と場合によってくるところがある(いつでも推奨されるわけではないだろうけど)。

 自然と制度の関わりが当てはめられそうだ。はたして、自然は不平等であり、制度によって平等となるのか。それとも、自然は平等であり、制度によって不平等となってしまうのか。そうしたちがいがありえるそうなのである。そこについては、こうであると一方的に決めつけることはできづらい。どのようにも見ることができてしまうところがある。極論ではあるだろうけど、無政府主義(アナーキズム)を持ち出してみるのも、必ずしも荒唐無稽ではない部分もありえる。

 政府とは代理であり、代理によって二分化(代理者と有権者)される。二分化とは間接によるのであり、そこにずれがおきる。どんなに気をつけていても、有権者とのあいだにずれがおきるのはありえるだろう(ましてや気をつけていなかったらなおさらである)。そうしたひずみがおきてしまうのがあるから、それにたいして、耳をふさいでしまうのは適した対処であるとは思いづらい。