長いつき合いがあるのであれば、情が移るのがあるから、信じたい気持ちがあるとしても不自然ではないだろうけど、距離が近いがゆえの批判性の欠落はありえる

 二人とは、長い間のつき合いである。二十年くらいになるという。それくらい長く見てきたことから、二人が何かよこしまなことをするはずがない。不当に行政をゆがめることもない。私利私欲に走ることはないというのである。

 これは、自由民主党山本一太議員が、菅義偉官房長官安倍晋三首相について述べていたことである。山本一太氏は、菅官房長官や安倍首相と個人的に長いつき合いがあるのだという。その長いつき合いから、この二人が何か裏で悪いことをしでかすようなことは考えられない。そのように断言していた。

 正直いって、ちょっと甘い見かたなのではないかという気がしてしまった。車の運転でいうと、だろう運転になってしまっていそうである。そうではなくて、かもしれない運転をしないとならないのではないか。人が飛び出してはこないだろう、とするのではなく、そういうことがおきるかもしれない、とするほうがふさわしい。

 二人とは長いつき合いであるという山本一太氏の事実は、まったく軽んじてよいものとは言えそうにない。とはいえ、それが確実な論拠といえるのかといえば、そうともいえそうにないところがある。性善説による惻隠(そくいん)心をはたらかせすぎなところはいなめない。

 安倍首相による政権が、経済をふくめて、きちんとした成果をこれまでに出してきたのかといえば、そこはちょっと微妙なのではないかという気がする。経済についても、国策によって国債金利が低く抑えられており、ほんとうの実力が大きくゆがめられているとも見られている。市場の調整によるのではないふうになってしまっているという。そうした点が心配である。

 政権が長期にわたって権力をにぎるのが、国の利益となる。そうした意見はまったく分からないものでもない。しかしその点もけっこう微妙なものだといえそうだ。はたして、報道の自由が少なからず抑圧されてしまうのと引き換えにしてまで、政権の長期化が国の利益となるのかはいささか疑問である。少なくとも、政権の長期化が、どこから見ても国の利益となると自信をもってはいえそうにない。

 タレントの北野武氏は、学校で用いられる道徳の教科書に、お笑いの視点から色々なツッコミを入れていた。そのなかで、色々な分野には、その分野における道徳があるとしている。上に上がってゆく者は、自然とそういった道徳を身につけるものである。そうでないと、上にはなかなか上がって行けない。

 ある分野のなかで上に立つ者が、はたして道徳を身につけているものなのか。そこはけっこう微妙な部分である。感心できるようなきちんとした道徳を身につけていればのぞましいが、現実にはそういったことは確実であるとは言いがたい。かりに道徳を公の益であるとすると、うわべではそれを重んじることがある。しかし裏では反道徳であるような私の益を追い求めていてもおかしくはない。残念ながら、そういった現実はありえるものだろう。

 まったく道徳を身につけていなければ、ある分野で上に行くことはむずかしい。そうした面はありそうだ。政治の分野については、素人から見たことにすぎないのはあるのだけど、いまの政権について、どうしても道徳とは別のことが見うけられてしまう。その別のこととは、言い逃れである。言い逃れの技術が(無駄に?)すごく長けているような気がするのである。これは自己正当化であり、中和化であると言ってさしつかえがない。そうした方向へ動機づけられてしまいすぎているのであれば、残念である(多少はしかたがないものではあるが)。

 山本一太氏からすれば、二十年もの長きにわたるつき合いがあるわけであり、そこからして、悪いようなことだったり、私利私欲を追い求めたりするようなことを、やるとは考えられない。菅官房長官や安倍首相について、そのように見なしているわけだろう。こうした見かたをとるのも分からないではないが、このように見てしまうと、悪いことをやらないのが必然だとしているに等しい。こうして、悪いことをしていないのが必然だと見なすのにはちょっと賛同できない。そこについては少なくとも、悪いことをやっていないかもしれないし、その逆にやっているかもしれないという、二つの見かたをとるのがいるのではないか。疑惑をさし示されてからの政権の対応をふまえると、悪いことを何らやってはいないとして、必然で見なすのにはどうしても無理があると言わざるをえない。