強引な統治のやりかたに強く不満をもっている人が、そのうっぷんを何らかの機会に吐き出すことはありえる(適切な機会とはいえないかもしれないが)

 首相に向かって、やめろというやじを投げかけた。選挙の演説中に、そうしたことがおきた。そのやじの主体を、プロの活動家であると見なす。そうしたフェイスブックの記事に、安倍昭恵首相夫人は、いいねのボタンを押した。朝日新聞がそれを報じていた。

 このフェイスブックの記事は、安倍昭恵夫人ではない、ほかの誰かが書いたものらしい。これと同じようなことを、作家の百田尚樹氏は、外国特派員協会で記者会見を開いたさいに述べていたようである。それで質疑応答のさいに、日本の一般の記者から、百田さんはじっさいに現場の秋葉原に足を運んでいたのか、との質問を受けていた。その質問にたいして、現場には足を運んでいない、と百田氏は答えていた。二次情報をもとにしていたわけだろう。

 はたして、秋葉原での選挙演説中に、首相に向かってやめろというやじを投げかけたのは、本当にプロの活動家だったのだろうか。その真相は明らかにはなっていないだろう。そうであるにもかかわらず、プロの活動家にちがいない、なんていうふうに見てしまうと、属性を当てはめることになる。属性をもとにして、そこから推しはかるようなあんばいだ。

 やじの行為の背後に何らかの人格を見いだしてしまうのは、汎霊論(アニミズム)によっているところがありそうだ。そうした属性や人格を実体であると見なしてしまうと、必ずしも現実を見ることにはならない。現実におこったのは、やじという表出であり、そこで立ち止まることもできる。そこで少し立ち止まることによって、属性や人格を当てはめてしまう前の、人間としてとらえることにつながるのがある。

 選挙妨害であるとすれば、法に触れてしまうところがあり、そうして法に触れるようなことをするのは、いかがわしいプロの活動家にちがいない。そのように見なすことがありえる。たしかにそのように見なすことができるが、法に触れるようなことをしない人は善で、触れるようなことをする人は悪だ、と決めつけてしまわないこともできる。決まりがあるのだとしても、そこから多少は逸脱してしまうのは、人間にはつきものだ。ようは、その逸脱にたいして、何らかのレッテルが貼られるかどうかが一つの分かれ目となる。

 逸脱にたいするレッテルを貼るさいに持ち出されるものの一つが、プロの活動家といったものだろう。そうしたレッテルを貼ってしまうこともできるわけだが、それが貼られる前の、表出として見ることもできる。そうした表出は人の口から発せられるものであり、自発性があるものであるから、何らかの考えの結果であるととらえられる。その考えをむげに切って捨ててしまうのはどうかなという気がする。そうした点で、(よほど頓珍漢なものでないかぎりは)表出されたものにも尊重される意義があると言えるのではないか。