帰結主義(プラグマティズム)においては、とりあえずの事実であり、とりあえずの本質、と言えるかもしれない

 太陽は、地球のまわりを回る。これは天動説であるわけだが、そのような決まりをかりに定めたからといって、太陽が地球のまわりを回ってくれるわけではない。天動説はかつて信じられていたわけだが、いまでは誤りとして見なされ、地動説がとられている。近代では、地動説が事実であるのなら、それを主とするのでないとならない。事実でないものを優先させるのはのぞましくないのである。

 事実を重んじるのはたしかに大事だろう。しかしそのさい、事実を絶対化するのはどうだろうか。かつて天動説が信じられていて、いまではそれが誤りとなった。そしていまでは地動説がとられているわけだが、そうかといって、地動説は未来においてはくつがえされているかもしれない。何かほかの説が正しいものとして説かれていることがありえる。

 そうしたことをふまえると、いま現に事実と見なされていることであっても、それを絶対化させずに、相対化するのがふさわしいのではないか。一つの変わりうるパラダイムとしておく。事実を現状と言い換えられるとすれば、現状として見なすものが必ずしも客観的であるとは言い切れない。何らかの形でつくられたものであることが避けられず、置き換えられているところがある。観念化されているわけである。

 発話行為論では、事実(コンスタティブ)と遂行(パフォーマティブ)はきっぱりとは分けがたいものであるとされているようだ。事実を述べるにおいても、そこには遂行的なものが入りこむ。事実だけで純粋に成り立つのではなくて、そこには遂行が入りこむのであり、不純にならざるをえない。

 かりに、たがいに対立し合う、相互敵対による自然状態(戦争状態)の現状があるとできる。そうした現状があるとして、それにふさわしいように対応するのだと、自然主義的な誤びゅうにおちいるおそれがある。かくあるありようを、かくあるべしとしてしまいかねないのである。そうした誤びゅうにおちいるのだと、自滅することがありえる。

 自滅とは死の恐怖であり、人間はそうした負の経験を通じてはじめて反省することができる。それくらい愚かなところがある。愚かではあるだろうけど、負の経験から教訓を引き出すのであれば、少しはそこから脱することができる。脱することができるとはいえ、少し時が経つと、たやすく負の経験を忘れてしまいやすい。

 事実でないものを持ち出して、それによってむりやりに事実にしてしまうことはできないことはたしかである。そうではあるだろうけど、いっぽうで、事実のおかしさといったものもありえる。事実として秩序があるとしても、それがおかしなほうだったり変なほうへ行きかねなかったりするのであれば、公民的不服従をすることもありだろう。従わないことも時にはありだという気がする。これは個人による自然的権利によって裏づけることができる。

 事実でないものを持ち出すことで、事実にしてしまうことはできない。そうかといって、事実が法を超えてしまうとすると、それは少なからず危ないのがある。事実が法を超えてしまうのだとすれば、法はいらないことになる。集団が、法を超えることを正当化するためのイデオロギーとして事実を持ち出すのであれば、剣呑であるといわざるをえない。

 いかなるさいにも決まりを変えてはならないかといえば、そんなことはないのもある。手続きがしかるべきものであれば、決まりを変えるのは否定されるものではないこともたしかである。しかしそのさいにも、事実だけをもってして押し切ってしまうのであれば、ちょっといただけない。そこについても、立憲主義による決まりができるかぎり重んじられればさいわいである。少数者や弱者や、他者がなるべく重んじられたほうがよい。もっとも、そうしてしまうと、速度感が損なわれてしまうのは一種の欠点と言えるかもしれないが。

 法は英語で law だが、これは lay からきているという。lay は横たわっていることを意味するようだが、もともとあったものが発見された、との意味合いをもつ。そのように受けとれるそうである。法則なんかがそれにとくに当てはまるものだろう。それくらい重みを持つものとして見ることもできそうである。あまり重々しくとらえすぎなくてもよいだろうが、かといって軽々しくとらえすぎるのもちょっとどうだろうか。

 事実を本音であるとして、人間は本音だけで生きてゆけるかといえば、そうとは言えそうにない。嘘ではあるかもしれないが、何らかの建て前がないことには、立ち行かないところがある。嘘とはいっても、必ずしも悪いものとは言い切れないものである。結果として嘘をつくことになってしまう場合もある。そうした嘘はすべてが許されるものではなく、批判されてしかるべきものもあるのはまちがいない。そのいっぽうで、嘘をまったく無くして社会が成り立つかといったら、それをうんということが嘘になってしまう。社会から嘘をまったく無くすようにしようとすれば、ロマン主義的な虚偽にならざるをえない。矛盾ではあるが、そうした点も言えそうだ。

 批評家のルネ・ジラールは、ロマンティックの虚偽と、ロマネスク(小説的)の真実、と言っているそうである。くわしくは分からないから、まちがってとらえているかもしれないが、このさいのロマンティックの虚偽とは、直接主義をいましめるものだろう。直接さによる現前中心主義は、たとえば自民族中心主義(エスノセントリズム)なんかがあげられる。そうしたものは、何らかの物的なものに媒介されざるをえない。ゆえに間接的なものになってしまう。そうした点を隠ぺいした上で成り立つ。たとえ間接的であったとしても、虚構によって真実をうがつ、なんていうのもありえるそうである。