会場に闖入してきた人をいなせたのは、寛容さが持てたからだろう(闖入してきた人よりも優越していたのによる)

 自分を支持するのではない人が、闖入してきた。そこでその闖入してきた人をじゃまであるとして非難するのでもおかしくはないが、逆にその人のことを認める対応をとった。たとえ場ちがいではあれ、自分とはちがう代表者を支持するその人にも、表現の自由はある。その自由を尊重しようではないか、と聴衆に呼びかけた。

 これは、2016年の 11月に、アメリカの会場で演説をしていたバラク・オバマ元大統領によるものである。オバマ氏のこの対応は、表現の自由をできるかぎり尊重するものとして、とっさに対応したものだといえる。場ちがいなところへ、自分を支持するのではない人が来た。その人がほかの代表者への支持を訴えたわけだけど、それについて、公共の福祉にはとくに反しないと見なした。

 ひるがえって日本では、さきの東京都議会議員選挙の選挙戦において、安倍晋三首相のやじへの対応がとりあげられている。やじを投げてくる人たちにたいして、こんな人たちには負けるわけにはゆかない、自分たちはそうした汚いやじをこれまでにまったくしたことがない、なんていう趣旨のことを首相が述べた。

 首相についてはひとまず置いておいて、オバマ氏について見てみると、長期的な利益をふまえているととらえることができる。表現の自由をできるだけ尊重するのは、長期的な利益にかなっているのだ。民主主義はまちがったほうへ暴走することがあるが、これは自由主義によって歯止めをかけられるのがよいとされる。そして、平等の点でいうと、たとえ元大統領とはいえ、それは一つの役割にすぎず、表現の主体としては他の人とも等価に近い。かけがえがないのではなく、どちらかと言うとかけがえがある。そうした、兄弟性による連帯のありようをとっていそうである(少なくともうわべにおいては)。

 安倍首相について見てみると、短期的な利益をとってしまっているところがありそうだ。それが見うけられるのは、たとえば憲法違反だとする声があるにもかかわらず、一部から問題視されている法案を力づくで通してしまうところに見うけられる。あとは、自分に近しい者を引き立ててしまう縁故主義も目だつ。自分に近しく、思想も共通している人を引き立ててしまうのは、短期的な利益をとっていると見なすことができる(ある程度はやむをえないものではあるが)。

 自分に近しく、思想も共通している人には、賞が与えられやすくして、罰が与えられにくくする。いっぽう、自分に遠くて、思想が共通していない人には、賞が与えられないようにして、罰が与えられやすくする。こうしたありかたがとられているとすれば、中立性がいちじるしくないがしろになっており、恣意的なふうになっている。選択的賞罰(セレクティブ・サンクション)によっているためだ。

 民主主義にはよっているかもしれないが、それがまちがったほうへ暴走してしまうさいの歯止めとしての自由主義については、ちょっと分が悪くなっているところがありえる。自由主義は日本には不要だ、なんていう題名の本も出版されていたのを見かけた。いまは流れとしては保守主義のほうがやや分がよさそうである。

 選挙戦において、安倍首相にやじを投げかけた一部の聴衆がいた。このやじを投げかけた人たちは、組織的活動家だなんて言われてもいる。いやそうではなく、ふつうの一般市民の声にほかならない、とも言われている。その真偽は置いておくとして、安倍首相の対応からひもといてみることができるとすると、やじを投げかけた一部の人たちをふくめて、首相と聴衆とは、いわば父と子のようになっていそうだ。一部の子が父に歯向かったからこそ、父(とその側近)はそれをよしとはしなかった。けしからんことだと見なした。これが一部ではなく子の全体にまで広がることを恐れた。そうしたことが言えるのではないか。

 ほんらい、民主主義においては、オバマ氏のありかたのような、兄弟性による連帯がとられているほうがのぞましいとされる。こうしたありかたが日本では現にとられているかといえば、残念ながらそうではないと言わざるをえない。そのようなふうに言えそうだ。そうした点をふまえると、民主主義とはいっても、そのありようが少なからず変質しているところがあるかもしれない。大衆迎合主義なんかもあるから、その点に多少は気をつけておくこともあればよさそうだ。