選挙戦の中で、色についてが少しだけ気になった

 緑の色を基調として、選挙戦をたたかう。都民ファーストの会はそのようにしていた。この緑の色を使うのは、公平性を欠くのではないかという気がする。公平性を欠くのがあるわけだが、そもそも、ほかのどこともかぶっていなければ、とくに問題があるわけではないのもたしかだ。とはいえ、ほかが遠慮しているだけなのかもしれない。とすれば、先に選んでしまったほうが有利になる。先行利益みたいなのもありえる。

 都民ファーストの会が緑の色を自分たちの色であるとしたことで、今回の東京都議会議員の選挙に大勝したのだと言ってしまえば、それは言いすぎになるだろう。色のよさを競って選挙がおこなわれたわけではない。いわば余剰であり、つけたりのようなものである。しかし、ちょっと見すごせないところであるような気もする。

 公平性を期するのであれば、都民ファーストの会は緑の色を自分たちをあらわすものとして、使うべきではなかった。そのように言うことができそうだ。いわば早い者勝ちのようにして、緑の色を自分たちをあらわすものとして使うのは、ほかの党に少なからず不利になる。自分たちに少しでも有利になりさえすれば、ほかの党のことはかまってはいられなかったのかもしれない。もしくは、結果論でいえば、都民ファーストの会こそがどこよりも緑の色をいかんなく使いこなせていたとも見なせる。ほかの党では、使いこなすとしてもちょっと役不足になりかねない。

 色の力で勝った、とは必ずしもいえないかもしれない。そのうえで、逆にいうと、都民ファーストの会以外のほかの党は、色の力で負けたとすることができるだろうか。それもちょっと言いすぎかもしれない。選挙の結果については色々な要因がからんでいるものだろうから、たんに色だけで決まったとすることはできそうにない。

 緑の色についての物神性(フェティシズム)みたいなのもあるかもしれない。そうした呪力みたいなものがはたらいている。緑の色がよい意味をあらわすものとして見なすからこそ、党をあらわす色として使っていたのであり、それは物神視していることをあらわす。それにくわえて、都民ファーストの会が緑を選びとることによって、あらためてそこに価値が生じてくる。緑への欲望がおきるわけである。

 都民ファーストの会が、自分たちをあらわすものとして、緑の色を使った。しかしこれを逆から見れば、緑の色が、都民ファーストの会を使ったといったところもあるかもしれない。こう言うと、ちょっと変なことを言っていると受けとられてしまうおそれがある。そのうえで、緑の色が都民ファーストの会を使ったというのは、緑の色にふさわしいように、都民ファーストの会が自分たちからふるまったところもありえる気がするからだ。緑の色に似つかわしくはないものとして、都民ファーストの会はふるまいはしなかった。

 心理においていえば、そこには効果または効用みたいなのがはたらくことがありえる。その効果や効用の作用は少なからず選挙の結果にも影響を与えたかもしれない。とはいえ、都民ファーストの会がみんなにとって見なれたものまたはありふれたものとなれば、新しみがなくなってくるため、緑の色も陳腐に映ってくるようになることがありえる。経済学でいわれる、限界効用逓減の法則がはたらくわけである。

 ボクシングでは、たしか挑戦者の側は青コーナーで、受けて立つ側が赤コーナーになっているようだ。挑戦者は相手のコーナーの色である赤を見て闘志を少しでもみなぎらせる。受けて立つ者は青の色を見ることで冷静にたたかう。そうした意味あいがあるそうだ。こうしたふうに色が決められていれば、理にかなっているところがある気がする。