誤解と志向性による意味づけ

 誤解であることによる。政治家の人が失言をとり沙汰されて、そのように弁解した。受けとるほうが誤解しているのであり、まちがっているのだとしている。たしかに、失言したことが、もしそのように整合してとらえられるのであれば、その余地がある。しかし、受けとるほうが誤解したとするのが整合しないのであれば、かなり苦しい弁解にならざるをえない。受けとるほうが誤解したのにほかならないとして、先見でもってして決めつけていることになる。

 重箱の隅をつつくようにして失言をあげつらうのであれば、やりすぎになるおそれがある。しかし、言明の中心において失言をしていたのだとなれば、それについては大目にとらえて見すごすわけにはゆかないのではないか。ゆるがせにはできづらいところである。あまり厳しすぎるのもよくないかもしれないが、かといって大甘に見てしまうのだと、法の恣意的な当てはめになりかねない。なにが優先されるのかにおいて、それがかりに国家であるのだとしても、国家とは法である。ゆえに、ここはちょっとまずいといった線引きを踏みはずしてしまうのであれば、そこは非を指摘されてもしかたがないものだろう。