失敗をしてしまったことにおける、動機と結果のちがい

 そんなつもりではなかった。それを理由に持ち出して、失敗したことの言い訳としてはならない。政治家の人が、自分の秘書にたいして、そのようなふうにとがめた。そんなつもりではなかったのを言い訳にして失敗が許されるのであれば、たとえば車で人をひいたさいにもそれが持ち出せるではないか、といったことを例としてあげていた。

 そんなつもりではなかったというのは、動機である。そして、失敗をしてしまったのは結果である。このさい、動機はまちがってはいなかったが、結果がまちがってしまった、といえる。動機がよかったのだとしても、結果がまちがってしまったのであれば、台なしであることはたしかである。

 動機はよくても結果がだめだったのであれば、故意ではなくて過失だといえる。そして、動機がよいことをもってして、結果がだめだったことの言い訳にはできない、とするのは正しいだろう。しかし、たとえ正しいからといって、あまりねちねちとしつように非を責め立てるのはどうだろう。少なくとも、動機も結果も共にだめであるよりは救いようがあるし、情状酌量の余地もあるのではないだろうか。性善説により、失敗者へ惻隠(そくいん)心をもつことができる。もっとも、動機がよいとはいっても、それは建て前であり、じっさいにはすごい怠慢をしているのであれば、本音が問われることになる。

 車で人をひいてしまったなんていうことであれば、そうとうな大ごとであり、民事や行政や刑事の責任が運転手には問われることはまちがいがない。そうした事故においては、すでにそれがおきてしまったのであれば、現実と化したわけであり、後戻りできない不回帰点がおきたことになる。

 車の事故であれば、あるていどはどのような罰則が科されるのかの予測が立つ。罪刑法定主義がとられているためである。しかし、仕事での失敗なんかだと、どれくらい上の者からとがめられるのかがわかりづらいところがあるかもしれない。上の者のそのときの虫の居所しだいによってしまうおそれがある。ひどく虫の居所が悪いときであれば、失敗を必要以上に誇張されて、あたかもとんでもないことをしでかしたかのような言われかたをされかねない。冷静に見れば、そこまで言われることでもないものであることもありえる。

 上の者は、絶対君主ではないのだから、朕は法なり、みたいなふうにならないようであればさいわいだ。たとえ上の者において、朕は法なりとして、その法がふさわしいと見なせるものであったとしても、そこにおいて通じている理屈は、完全に正しいものであるとは言い切れない。(上の者による理屈において)下の者を不当にいじめてしいたげるつもりはなかった、との動機から、結果として下の者をそうしてしまったことの言い訳にはちょっとなりそうにない。