推測によるとはいっても、的はずれなものもありえるし、当たっているものもありえそうだ

 推測にもとづくものが多い話である。なので、それについて何かコメントするには値しない。政治スキャンダルの当事者の一人とされる政治家の人が、そのようなことを記者に述べた。これは、文部科学省事務次官をいぜん務めていた人の記者会見を受けての発言である。

 推測によるところが多い話だから、何かコメントするには値しないというのは、ちょっとどうなのだろうという気がした。推測によるとはいっても、いっさい何の関わりもない部外者によるあてずっぽうなものとはわけがちがう。官僚組織のなかで、しかるべき地位にいて、じっさいのことに長く携わっていたわけであり、それなりの情報の質と量を備えていると見なせる。なので、推測であるからといって切って捨ててしまうことはできづらい。

 娯楽ではあるけど、ミステリーなんかでは、探偵の役を担う人が、確たる証拠が無いなかで、自分の推測の力をもってしてものごとの真相を突き止めてゆく。いくつかの足跡が残されているのをふまえて、そのたどられたであろう道ゆきをさぐる。これは、物語と言ってしまえばそのようにも言えるものである。そのうえで、柔軟な大衆的知性(インテリジェンス)をもちいて、いくつかの残された足跡という情報(インフォメーション)から、試みとして一つの小さな物語を導くことはあってもよいものだろう。

 でまかせの物語を導いてしまってはよくないところがあるだろう。とはいえ、大きな物語といったものが通用しづらい現状もある。いまの世の中は情報過密社会なので、何が本当かがわかりづらくなってはいるが、そうであるのなら、小さな物語に自分なりに賭けてみることがあってもよいだろう。そのさい、自分がよしとするものがあるとして、そこへの認識がまちがっていることはありえる。そのまちがいのおそれはあるが、あえて多少のまちがいをいとわないで一つの立場を選びとることがあってもよい。

 いくつかの足跡と見なせる情報が明らかになっているとして、その足跡がほぼまちがいなくたどったであろう道をさぐる。その動きを強いて止められるものではない。そこには動機づけがはたらく。動機づけをはたらかせるなとするのは無理な話だろう。意欲と経験がかけ合わされることによって、何かが形づくられたり表出されたりする。

 明らかにこういうふうな足どりを運んだであろうと受けとれるものがあれば、そこから整合性を見いだしてつじつまを合わせて読みとるのがむしろ自然なのではないか。それを、まったく非の打ちどころのない完ぺきな根拠がないからとしていっさいを退けてしまうほうがちょっと不自然だと言えてしまいそうだ。

 いずれにせよ、罪ありと見なすか、それとも罪なしと見なすか、どちらにおいても、あるていど推定することは避けられそうにはない。そのさい、罪といっても、違法でないのであれば問題ないではないか、とする見かたもなりたつ。しかし、合法的正当性だけが正当性ではない。違法でないとしても、それは十分条件とはいえないところもあるだろう。くわえて、法の網の目をかいくぐってといったこともありえる。古代ギリシャでは、法はクモの巣であり、大きいものは巣を突き破って飛んでゆき、中くらいのものや小さいものだけが巣に引っかかる、と言われていたそうだ。