合理に重きが置かれてもよいだろうが、そこには限定と限界がある(可謬的であり、可疑的である)

 仕事ができないとして、強く責め立てられる。その責め立てかたは、しつようなものであったらしい。それで、その政治家の人のもとで働いていた秘書の人は、長くは持たなかったようである。秘書がひどい責め立てられかたをしていたのが明らかにされて、政治家の人は所属していた党を離党することになったという。

 仕事ができないのだとしても、それでひどく責め立てられてしまうと、嫌がらせであるハラスメントが関わってくることになる。そうした力関係からの嫌がらせによって、それを受ける側は小さくはない精神的外傷をこうむることがありえる。ひどいのであれば、そうかんたんに癒えない深手を負う。

 仕事ができない人において、その人自身に原因があるともできるが、必ずしもそれだけとはかぎられない。仕事ができないのを結果であるとすると、何かほかのところに原因があることもありえる。そのように複雑系によって見ることができるのではないか。何かちょっとした小さなかみ合わせが合っていないだけなのかもしれないし、また何らかのことで動機づけがうまくはたらいていないのかもしれない。賞罰(アメとムチ)のありかたがおかしいこともありえる。

 強く叱るというのも、一つの手として絶対に認められないものではないかもしれない。しかし、その強く叱る手だけしかないわけではないだろうし、その手がじっさいに有効に作用するかどうかもいぶかしい。たんに自分がその手を用いたいだけなのだとすれば、手段が自己目的化しているだけであり、撞着してしまっている。

 仕事ができるかできないかで区別されてしまうのはある程度はしかたがないところがあるかもしれないが、差別になってしまうおそれがいなめない。区別は差別にたやすく横すべりしてしまう。そうではなく、できるだけ個人が尊重されるようであるのがのぞましいだろう。人と違うようであってもよいわけで、その違いが否定されないようであればさいわいだ。

 あまりに効率性が重んじられすぎてしまうと、あたかも個人が部品のようにあつかわれかねない。そうした機械的な世界像に適合できないものは、邪魔ものであるとか役立たずであるとか見なされてしまい、ののしられたり排除されてしまう。そうした世界像においては、量が重んじられ、質がないがしろになる。量にできない質をもったものは、同一ではなく非同一さをもつ。同一をよしとするのであれば、非同一なものはのぞましくないので悪玉化されやすい。かっこうの標的になる。

 同一をよしとする世界像に当てはめがたいものを悪玉化するのではなく、できるだけ有用性を持つものとして見ることができたらよさそうである。そういったゆとりがあったほうが、関わり合いのなかで心理的な効用が高くなることがのぞめる。そうした実践をすることができれば、抑圧されてしまうことが少なくなるだろうし、解放につながることが見こめる。何か一つのありようにのみ還元されるようでないほうがよいだろう。力関係において、弱者がなるべくしいたげられないようなふうであればのぞましい。