官邸の最高レベルも間違いをしでかすことはありえる(人間なので)

 官邸の最高レベルが言っている。そうであるのだから、しかるべく空気を読んで忖度せよといったあんばいだ。こうした文句が、行政の文書において使われたという。あくまでも官邸側はそうした文書は無いとして否定しているようだ。文書が有るのか無いのかとなると、水かけ論になってしまわざるをえない。言ったことを文書に書きとめたとして、言ったこと自体はすでに消失してしまっている。

 官邸の最高レベルが言っていることについても、大きくいえば二つのものがありえそうである。一つは正しいことであり、もう一つは間違っていることである。正しいことであれば、みなが納得しやすいのでそれほど問題はない。やっかいなのは、間違っていることである。間違っていることだとしても、それは間違っているのではないかと、気やすく指摘できるようであればよい。しかしそうでないのならやっかいさが増す。下の者によけいな気苦労をかけることになる。

 官邸の最高レベルが言っていることなのだから、有無をいわずにただちに命じられたことに従うのがのぞましい。そうした意見もありえるが、しかしこれには個人的にはちょっとうなずきがたい。ここには人を動かす政治がからんでくる。人を動かすさいに、一番のぞましいのは、動かされる人が納得できるように、適した説明がなされることである。きちんと説明されて、納得できて、それで動くことになる。のちの帰結にまで気が配られていないとならない。

 あまりのぞましくないやりかたとして、力で動かしてしまうのがある。これは、権威をふりかざしたり、強制してしまったりするものである。官邸の最高レベルがこのような力を用いたとしても、広くいえば民主主義の範ちゅうに収まることはありえる。しかしこれは民主主義とはいっても、かなり専制主義に近いものとなるおそれがいなめない。ものによってはそうしたおそれを指摘することができる。

 民主主義といっても、力づくの専制主義に近いものもありえるので、そうしたありかたで人を動かしてしまうのだと、正当性が問われるところが生じてきても、ある点ではしかたがない。民主主義で選ばれたからだとか、官邸の最高レベルが言っていることだからといったものは、論拠として完全なものとは言いがたい。そこには不完全さがあるので、反論を受け入れることがいるだろう。もし反論をまったく拒んでしまうのであれば、反発を受けることにつながる。

 民主主義とは下克上でもあるから、上へ向けて下が反発をすることは当然ありえる。この反発は個人による自然的権利の行使といえよう。くわえて、そもそも上と下の隔たりがはじめからできるだけ少ないほうがよい面もあるので、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることはできづらい。一つの立場として、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることもありえるが、それだと下の意見を押さえつけることになるおそれがある。下からの意見は、上へ聞き届けられることが十分にあってしかるべきところがあると言えるのではないか。