反省するのはよいことではあるけど、すごく強い悔恨の情なんかによるのでもないと、なかなか改めることができづらい(また同じ愚をくり返してしまうと自分を省みることができる)

 印象操作のような議論をふっかけられる。それについて、ついつい強い口調で反論をしてしまう。そこから、あまり生産的でない議論が国会で盛り上がっていったことはたしかだ。その点については反省をしている。自由民主党安倍晋三首相は、先の国会をふり返り、記者会見の場でこのような弁をもらした。

 この安倍首相の弁において、そもそも、印象操作のような議論とはいったいどのようなものをさしているのだろう。これは、印象操作のような議論であると、安倍首相が自分でそのような印象をもったということなのだろうか。そうした印象を自分が感じたというわけである。その印象の感じかたは、はたして正しいものなのかの点が定かではない。

 印象操作のような議論という印象を首相が抱いたとすると、その点については疑問をもつことができそうだ。たんに相手が事実を言ったのを、印象操作ではないかと感じたおそれもある。これは、何か言ったさいに、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)がはっきりとは分けがたいことに由来していそうだ。言語行為論ではそのような分けがたさが指摘されているそうである。なので、そこをあらかじめ踏まえておくことがいるだろう。

 もし印象操作のようなことを言われたとしても、それにたいして、強い口調ではなく、ふつうの口調で反論することができればよい。もっとも、つい感情的になってしまい、強い口調で反論してしまうのは、人情としては分からないでもない。人間だから、そういうことはあってもおかしくはないことである。もし方法論としてまたは言い訳としてそれをやっているのならいささか問題はありそうだけど。

 かりに議論が生産的なものにならなかったとしよう。それは結果なわけだけど、その原因について、相手が印象操作をしてきたからというのをあてはめるのはどうだろうか。それは原因になるのかといえば、やや疑問である。相手がもし印象操作のようなことを言ってきたのだとしても、それだからといって必ずしも非生産的な議論になるとは言いがたい。生産的な議論にもってゆくことは自分しだいでできるものなのではないか。自分から非生産的な議論にもっていってしまっている面も、原因としてあげられるところがあると勘ぐれる。

 生産的な議論というのは、相手が印象操作のようなことを言ってくるかそれとも言ってこないかによらず、形式にのっとって行えばよい話なのではないかという気もする。相手が印象操作のようなことを言ってきている、とこちらが決めつけさえしなければ、生産的な議論は形式としてやりようがある。逆に、相手が印象操作のようなことを不当に言ってきている、と決めつけてしまうと、それが原因となって、生産的な議論がやりづらい。

 相手が印象操作のようなことをこちらに言ってきているとすれば、相手はそれを企てている。しかしそれをうら返せば、こちらもまた、相手が印象操作のようなことを言ってきているという見なしかたを企ててしまっている。もし、相手が本当は印象操作のようなことを言う意図をもっていないのだとすれば、こちらが一方的に、相手が印象操作のようなことを言ってきているとする誤った企てをもってしまう。こちらから一方的に相手への誤解をしに行ってしまっている。相手は、印象操作のようなことを言っていないことを証明はできづらい。なので、こちらが自分で相手への誤解を解くことがいる。

 与党と野党でいうと、首相にとって野党は客体である。そして、客体である野党が印象操作をしようとしているのかどうかは、主体である首相の意味づけしだいによっているところがはなはだ大きい。そしてその意味づけは、たぶんに主観的なものとなる。主体による客体への意味づけは、一つのもん切り型をもちいた慣習による実践をふくむ。印象操作というもん切り型の言葉づかいに、もん切り型であることが示されている。もん切り型はしばしば偶像(イドラ)であり、生産的とは言いがたい。そうした実践は構造からきているので、自分のよって立つ構造を自覚することで、非生産的な議論におちいることから脱するきっかけとできるかもしれない。あまり偉そうなことを言える立場にはないが、そのようなことが言えるだろう。

 もし印象操作のようなことを相手から言われたとすると、それを結果としてとらえられる。その結果が生じた原因として、たとえば自分の地位を不当に追い落とそうとする魂胆をもっているからだ、何ていうふうに見ることもできる。このように疑ってしまうと、相手の背後に意思をもつ実体を見てしまう。このように見てしまうと、思いこみである観念が肥大して止まらなくなる。なので、できればその思いこみである観念を解くことができればさいわいだ。そうすることで、相手の背後に意思をもつ実体を見ないようにすることができ、自分が不当に地位を追い落とされようとしている、と見なすことを避けられる。

 印象操作をしてくるやつとして、記号として相手を見てしまう。そうして、その記号が固定化してしまうようになる。われわれは社会の中で、記号を食べて消費している面が大きいのだという。自分にとってのぞましくない、負の記号として相手を見てしまうと、一つの負の象徴と化す。そのようにして還元して見てしまうと、ほかの肝心な細かい部分が捨て去られてしまう。神は細部に宿るともいう。その点に気をつけることができたらよいだろう。記号によって自他に差をつけるにしても、とても細かいわずかな差にすぎないかもしれず、大きなくくりでは自他は同じようなものであるかもしれない。そのような大らかな見地に立つことはじっさいにはできづらいものではあるだろうけど。