これまで大丈夫だったのだから、これからもそうであるとは必ずしも言い切れそうにはない

 安保法案が成立した。それでも、一部の人が強く危ぶんだようなことはおきていず、いままで何もさしたる問題はおきていない。そうであるのだから、共謀罪が成立するのについても危ぶむことはいらず、とりたてて何も問題はおきない。こうした見かたをとることができる。

 たしかに、安保法案が成立して、いくばくか月日がたって、何かとりたてて大ごとが持ち上がっているわけではない。しかし、あえて言うことができるとするのなら、可能性としては、何か大ごとが持ち上がってしまうこともありえただろう。ただ、そうした可能性を持ち出しても、仮定法の話だから、とくに意味はないかもしれないが。

 安保法案を強行に採決して成立させても、そのごにとくに問題はおきず、大丈夫だった。そうしたことを前提として、だから共謀罪が強行に採決されて成立しても問題はおきず、大丈夫だろう、と結論づけることは、いささか早計である。共謀罪が成立しても問題はおきず大丈夫だろうとする結論は、演繹による断定はできそうにないし、帰納によってそうであるだろうと見なすのにもやや飛躍がある。

 二元論で見るのであれば、問題があるかないかだとか、大丈夫であるかそうでないか、となる。しかしそうした二元論によるどちらかだけの見かたをとり外して見たほうが適当だろう。可能性がたとえわずかでもあるのであれば、それは未来においてはその可能性がおきることもあるし、おきないこともある。そのさい、危険なことになる可能性を確率のうえでほぼゼロとしてしまうようだと、二元論の片いっぽうを捨象してしまい、残ったいっぽうに一元的に還元してしまう。

 これからである未来を見るのであれば、確実さとして一元的に還元してしまうのではなく、不確実として二元的なことの両方を残しておいたほうがふさわしい。確実さとして一元的に還元してしまうと、全体化することにつながりかねないのがある。そうではなくて、否定弁証法といったようにして、否定的な契機をいたずらに隠ぺいしたり抹消したりしないように残しておく。

 政治におけることがらにおいては、政権をたやすく信頼してしまうのは専制(デスポティズム)に行きつく。そのようなおそれが低くないから、よいことをしているだろうとするだけでなく、悪いことをしているかもしれないとして見る二重の視点が欠かせない。へたに政権を聖別化しないようにしたほうがよいところがありそうだ。頭ごなしに叩いてしまうのもまずいかもしれないが。