排外的な言論を非難する言論もときにはやむをえないかもしれない(あまりにも行きすぎて目にあまるものであれば)

 言論の自由を守るようにする。そのさい、社会の中で、ある人と別の人がいるとすると、その人たちのあいだで利害が対立していないのであれば、規則が守られやすい。しかし、利害が対立しているようであれば、ゲーム理論でいわれる囚人のジレンマの状況に置かれそうだ。

 言論の自由を守るようにして、かつ誰か特定の少数者なんかをいちじるしく傷つけるようなことをできるだけ言わないようにもする。こうしたありかたに協力してくれるだけではなく、それへの裏切りもおきてくる。この裏切りは、それをしたときに手痛いしっぺ返しがあれば歯止めになる。しかししっぺ返しがなければ、裏切りが横行するようになってしまう。

 裏切りが横行するようになってしまうのは、経済学でいわれる外部効果がはたらくからだろう。外部効果というのは、市場の内において価値または反価値として評価づけられないものである。市場の内では、いちおう建て前のうえでは等価交換になっているわけだが、その外ではそうした原則すらはたらかない。他に迷惑をかけても、それで自分が何か悪い評価づけを受けるのでもなく、そのまま本音がたれ流し放題になってしまうようなあんばいだ。

 言論の自由を守るのはたしかに大事なことだけど、それとは別に、利害の対立がおきてしまっているのであれば、そこを認めることがいるのかもしれない。弱者への配慮などの決まりに協力してくれればよいが、そうではなく裏切ってしまうようにもなるので、そこを何とかすることがいりそうだ。裏切ったさいに、何らかの軽いしっぺ返しがあれば、多少の歯止めにはなるだろう。

 憎悪表現(ヘイトスピーチ)なんかだと、少数の人へ危害が加わるおそれが少なくない。そうした少数の人への憎悪の欲望というのは、とめどなく進んでいってしまうところがある。そうした欲望に抑えをきかせることはできづらい。なぜ抑えをきかせるのができづらいのかというと、人間は攻撃性の制御(コントロール)の仕組みが弱いとされているからである。しばしば人間は気が錯乱している(ホモ・デメンス)。

 他者への危害をなるべくおよぼさないようにするかぎりにおいて、言論の自由は守られるわけだから、憎悪表現なんかはできるだけ行われないようになるのがのぞましい。これはいちおう自由主義の観点から導くことができるものである。誰しもが、自分の属している集団や、民族や、または自分自身を愛することがあってよい。それと同時に、その愛好することが、他とぶつかり合うときに敵対的にならないようにすることがいる。敵対的にならないようにするためには、他の集団の人たちにたいする有用さをもつことができればよい。

 そうたやすくできることではないかもしれないが、それぞれの集団がもつ目的というのがあるので、それを頭から否定することがないようにできればさいわいだ。遠近法主義といったようにして、それぞれの集団がもつそれぞれの目的というのは、どこから見るかの視点によって、合理的であったり合理的でなかったりして見えるものだろう。合理的でないように見えたとしても、それは一つの視点にすぎないわけだし、ある集団がもつ目的を頭からないがしろにしてよいとは必ずしもいえそうにない。この点については、論理の複数性みたいなことで、多論理的(パラロジー)として見ることができそうであり、なにか特定の目的による合理性を中心化するだけでなく、脱中心化してしまうこともできるだろう。