非がまったくないという前提ではなく、それがあるという前提に立つのは、むずかしいところもある

 多少なりとも、自分に非があることを認める。そのような姿勢がとれればのぞましい。とくにどうでもよいような、とるに足りないことであれば、そうした姿勢はとりやすいだろう。しかし、ほんの少しでも自分の沽券にかかわるようなことであれば、認めることはできづらい。

 不徳のいたすところといったようなふうにして、自分に非があることを認めることは、一つの賭けのようなところがある。不徳さがあるとして、自分に非があることを認めるのは、いっけんすると否定的なことであるが、必ずしもそうであるとはいえそうにない。そのことによって、かえって自分の株が上がることもありえる。よくぞ認めた、何ていうふうに受けとられる。

 もめごとなんかでも、追求されている側は、自分の不徳のいたすところであるとして、その不徳さをもめごとの原因(の一つ)としてしまうことができれば、楽なのではないかなという気がする。たいていは、どこかしら自分に非があることが少なくないわけだから、その非を認めるということで、そこに不徳があったのだとするのである。そうしたほうが、不毛な言い争いになることを多少は防ぐことが見こめる。

 まったくいわれのないことがらで責め立てられても、いっさい言い逃れをしてはいけないのかというと、そういうことではない。そこは言い逃れなり反論なりをしてもかまわないところである。しかしそのうえで、自分に非がなかったのかとか、不徳さがなかったのかなどとして、内を省みることがあってもよいだろう。そうすることで、(自分に非があるかないかというのとは別に)たとえば置かれている環境が悪いだとか、状況に問題があるだとか、そういった他の要素なんかも少しは見えてくることがのぞめる。

 性悪説の見地に立てば、たいていはどこかしらに人間の性には悪の面がある。悪というのは不徳さと言い換えることもできるだろう。しかしながら、あらためて見ると、われわれをとりまくさまざまなことがらにおいて、自分の沽券にかかわるようなことはけっこう多く見られる。なので、本当に見るからにどうでもよいようなことでないかぎりは、自分に非があったり不徳さがあったりというのをなかなかすんなりとは認めづらい。そうした認めづらさは、人間の性における弱さでもあるだろうし、またそれ自体が一つのぬぐいがたい悪であり不徳さであるということもできるかもしれない。自己欺瞞的自尊心が発揮されてしまう。

 もしたやすく自分の非や不徳さを認められるのであれば、それは日ごろにおける有用性の回路から外れることをあらわす。日ごろにおける有用性の回路においては、自分の自尊心を少しでも蓄えて保ちつづけようとする。それが損なわれないように気を配っている。いわば、自尊心が再生産されているわけだ。そうしたありかたがどこかで反転して、自尊心が大きく消費されることがあってもよい。そうした大きな消費がなされないと、自己欺瞞からくる自尊心が肥大化していってしまうので、危険さがつきまとう。欲望の歯止めなさによっている。

 いっけんすると否定的なことだけど、自尊心を大きく消費してしまうことによって、楽になれるところもあるし、身の丈にあった姿にもどることができるのではないかという気がする。いっそ自分から自尊心を大きく消費して捨ててしまう手もありだろう。自分から、不徳さをもめごとの原因だとしてしまえば、主体性があるとも言えなくもない。背のびしつづけるのはつらいのもあるだろうし。