溝が深く開いていて、それを埋めるように努めるのではなく、ないもののごとくにしてしまう

 いろいろな疑問がつきつけられている。それにたいして、できるだけ向き合うことであればのぞましい。しかしまともに向き合うのではなく、つきつけられた疑問に答えずに、それを頭から退けてしまう。こうなってしまうと、自己循環論法におちいる。

 これは何が何でも、とにかく必要だから必要なんだ。あるいは、とにかくやっていないものはやっていない。ないと言っているものはないのだから、探すまでもない。こうした姿勢をとってしまう。この姿勢は、支持している人からすれば、とくに問題はないかもしれない。権威にあずかったものごとの進めかたと言えるだろう。

 自己循環による論法におちいってしまうのであれば、独話をしているにすぎないことになってしまうところがある。こうしたありかたでものごとを進めてゆくことになれば、危うい面があることはまちがいがない。投資家(有権者)が、権力者から何かうまい儲け話をもちかけられて、その話に客観的な裏づけがないにもかかわらず、頭からのっかってしまうようなことになる。

 権力者は、何かうまい儲け話をもちかけてもよいわけだけど、そのさいには、投資家(有権者)のみなにとって、これならまあ大丈夫かな、というような、客観的な裏づけを示さなければならない。きちんとした裏づけも示さないのに、これはまちがいなく儲かる話なのだ、と言われても、不信は払しょくされづらい。

 不信をもつのは、もつほうが悪いのだと言われてしまうかもしれないが、あとになって損をこうむるのは(権力者ではなく)投資家のほうなのだから、そこはシビアにならざるをえないところがある。そうしたわけで、自己循環による論法は、独話にすぎないのであり、対話による練り上げを拒んでいると見なさざるをえない。くわえて、自己循環による論法は、自分たちの無びゅうさや不可疑さ(妥当さ)を前提としているわけだが、この前提は疑ってしまうことができる。

 投資家と、うまい儲け話をもちかける権力者とのあいだには、隔たりがある。その隔たりを、できるだけ埋めようと努めることがないと、投資家のみなの気持ちを信用させるほうへもってゆくことはできづらい。この両者のあいだの隔たりというのは、その開きぐあいがどれだけあるのかの認知はさまざまだろう。しかし、まったく開いていないとするのは極端だ。開きぐあいは少ししかないという人もいるだろうけど、そうではなくて、かなり開いてしまっているという人もいるわけであり、そうした人への配慮があることがのぞましい。

 配慮を欠いてしまうことのみならず、投資家の一部の人のありかたを否定してしまうようではなおさらまずい。うまい儲け話をもちかける側である権力者は、一部の投資家から強い不信の目で見られるのを、受け入れることがいる。そうした不信の目というのは、権力チェックとして欠かせないところもある。これは投資家による精神活動の自由であり、この自由はできるかぎり認められるほうが、投資家にとっての利益や効用につながる。投資家には、色々な認めかたをする人があってよいわけだし、それがなるべく尊重されるようになればのぞましい。投資させられるようであっては、他律になってしまう。