不満を少しもらしただけですぐに首を切るのではなく、もうちょっと溜めをもってもよいのでは

 政権のやったことに不満をもらす。その不満をもらした場は、個人の生活の中での食事の席だったのだという。それが政権に伝わり、首を切られることになった。首を切られた人は、韓国の釜山で総領事を務めていた。

 不満の内容というのは、政権がとった行動にある。韓国は、日本領事館の前に置かれた慰安婦像を撤去せず、そのままにしていた。そのことについて、日本政府はよしとしないで、韓国から総領事や駐韓大使を日本国内に引きあげる措置をとる。この措置について、釜山の総領事を務めていた森本康敬氏は、こころよく思わない気持ちを抱いたという。

 森本氏の不満は、もっともなところがある。韓国にじっさいにいて、日韓の関わりを受けもつ役をになう人なのだから、その人たちが気持ちよく役をになえるようにすることも大事である。いきなり国内に引き上げさせられたら、かかわり合いがぎすぎすしかねない。空気が悪くなる。つき合いのある韓国の人たちの側からすれば、いったい何ごとなんだ、みたいなことになる。そうなってしまうと、今までやってきたことが、戻ったあとにやりづらくなってしまう。身の危険すらあるかもしれない。

 たとえ政権にとっておもしろくはないことであっても、現場に直接にたずさわる人からの声を聞き入れないというのは、一体どうしたことなのだろうか。それはまっとうなありかたとはどうしても見なすことができそうにない。政権が決定したことには黙って従い、いっさい不満をもらしてはならない、というのが正しいありかたかといえば、そうではないだろう。現場にじっさいにたずさわる者がどういう気持ちでいるのかというのを、無視してしまうのは問題だ。

 個人の生活の中で、食事をとっているさいに、政権への不満をついもらす。そのことが政権に伝わってしまうというのは、気の空間の否定である。公的な場で不満を言ったのならまだしも、私的な空間で少しくらい否定的なことを言ったからといって、それくらいは何とか受け流せることだろう。もし受け流せないのだとすれば、それは理の空間の一元論になってしまう。理だけの一元論のありかたは危ないものである。最低でも、理と気による二元的なふうでなければ、私がなくなり、さむざむとした公的な領域がただ広がるばかりだ。

 人間の内面の気持ちまで、政権にとってふさわしいありかたの一色に染め上げることなどできるものではない。そのようなことが言えるのではないか。社会のありかたとして、何か単一の決めごとにしたがって人が動いているとはいえそうにない。一つの要求だけでは動いていず、いくつもの要求がつきつけられている。そのなかでつり合いをとっているが、ときにはそのつり合いが崩れてしまうこともある。

 人間がもっている尺度を超えた、自然史的なところにおいては、両極のありかたがあると見なすことができそうだ。たとえば、何かを禁じられたり、否定されたとしたら、それだけで終わるとは言いがたい。そこには、振り子のような二重運動がおきてしまうことがありえる。従うことがあるとすれば、それだけではなく、それに抗うこともいる。もし抗うことをまったく認めないのであれば、それは両極のありかたを無視していることになる。かたいっぽうの、否定的な極を(じっさいにはあるにもかかわらず)ないものとして抹消したり隠ぺいしたりすることになりそうだ。