事実(ファクト)と感情(フィーリング)

 事実を明らかにしたい。もしそういうふうであれば、事実が表に出てくることを歓迎するだろう。事実が表に出てくるような場を、率先してもうける。しかしそうではなく、そうした場をもうけることを拒むのだとしたらどうだろうか。事実が表に出てくることを避けていると言わざるをえない。

 事実が表に出てきたとしても、それが自分たちに必ずしも不利にはたらくとは限らないだろう。もしかしたら有利にはたらくようなものが出てくるかもしれない。わずかではあっても、そうした可能性に賭けることをしてもよいのではないか。しかし、その賭けには危険がつきまとう。危険が大きいと踏めば、賭けに出ることを避けるような動機づけがはたらく。尻ごみをする。

 見なしかたの方向性として、収束と拡散というのがあるそうだ。この収束的思考と拡散的思考というのは、心理学者の岡田明氏によるものである。それでいうと、事実をできるだけ明らかにしたいというのは、収束にたいして力点を置くようにすることである。事実が出てくるまで、収束に力を注ぐ。そこに時間をかけてゆく。それで深めてゆくのである。まだ十分に深まってもいないのに、ごく浅い段階で最大の拡散(発散)をしたりはしない。

 事実が出てくることなどどうでもよいのだ。そういう態度でいるのなら、収束よりも拡散に力点を置くことになる。ほとんど収束に力を注いでいないにもかかわらず、早い段階で拡散(発散)を最大化してしまうのだ。これだと、一方的な決めつけになってしまうおそれがいなめない。そうして決めつけてしまうのはよいことではないが、これは収束をおろそかにして、早々と拡散の最大化に打って出てしまうことの必然の帰結である。

 事実が出てくるまでしんぼうして、時間をかけて収束に力を注ぐ。これはめんどうなことでもある。なので、そうしためんどうなものをすっ飛ばして、早いうちに拡散(発散)に行ってしまうのも分からないでもない。そのほうが楽ではある。しかしそれだと、十分に収束に力が注がれないので、事実にまでいたらないで決めつけてしまうおそれがある。それで、浅い段階で拡散が最大化されたものを、その拡散力の強さにそそのかされてしまい、うのみにしてしまうことも出てくる。

 最大に拡散(発散)するのは、十分に時間をかけて、収束が深まったところではじめてすればよい。これは、水を沸かすのでいうと、100度にまで水温が達してはじめてふつふつと沸き立ち、湯気が出るようなものだろう。しかしそうではなく、たとえば 30度だとか 40度のような低い温度が沸点になってしまうこともありえる(たとえ話のうえでは)。このような低い沸点であっては、もっととらえ方が深まる可能性があるのにもかかわらず、その芽をいたずらに摘みとってしまうことにほかならない。そのように言えそうだ。

 ごく早い段階での拡散(発散)の最大化は、できるだけなされないほうがのぞましい。とはいっても、収束だけに力点をおいて、途中で拡散(発散)をまったく差しはさまないでいるのは無理だろう。そうしたさいに、途中で拡散をするにしても、それはあくまでも試みとしてなされるのがよい。試みとしてではなく、予期に強い確証をもってしまうようだと、決めつけになってしまう。それがひいては悪玉化につながる。

 何を悪玉化として、そのはね返りの効果で何が善玉化されるのかといった点については、見きわめがいるところだろう。このさいの悪や善というのは、実体としてではなく関係として見ることができるのもたしかである。関係を一次的なものとして見ることができるとすれば、それらは固定されていなくて流動してとらえる見かたがなりたつ。自明なものとしてすでに広まってしまっている偶像(イドラ)を、多少なりとも相対化することができるようになるかもしれない。つくられた偶像を、同一なものとして保つのではなく、ずらしてしまうことによる異化による見かたがあってもよさそうだ。角度を変えて見てみれば、またちがった面が見えてくることがのぞめる。