スキャンダルが発覚したときの、虚と実の定めがたさ

 もし悪いことが発覚したら、大変なことになる。こうなっていれば、あるていど悪いことをするのが未然に防がれそうだ。しかしそうではなくて、悪いことが発覚しても、何とかすることができるようであればどうだろう。

 悪いことが発覚したとしても、それが身におぼえのない濡れ衣なのであれば、しかるべく反論するなり弁明するなりのことがあってもよい。言われっぱなしというのだとまずいだろう。これは、悪いことが、実だとされているけど、ほんとうは虚であったことになる。しかし、もし虚か実かが定かではなかったり、あるいは実であったりするものを、虚であるとして言いくるめてしまうようだと問題だ。それだと、たんなる自己擁護(弁護)になってしまう。

 賞罰(サンクション)によって動機づけられるのがある。そのさい、もし悪いことが発覚しても、何とかうやむやにするなりできてしまうようであれば、罰を受けづらいことになる。なので、悪いことをやらないでおこうという動機づけが弱くなる。そうしたことが言えるのではないか。このようであると、気持ちを引きしめるのではなく、ともするとたがが大きくたるんだりゆるんだりしてしまうようになりかねない。そうなってしまうと危ういところがある。腐敗することになる。

 ほんのささいな悪いことでも、それがひとたび発覚したら、袋叩きにあってしまう。そんなふうであれば、ちょっと罰がききすぎることになるから行きすぎかもしれない。とはいえ、かりにささいに見えることであっても、悪いことがおとがめ無しで素通りされてしまうのだとまずいのもたしかだ。そこのつり合いがうまくとれることがいる。

 罰を受けることを逃れられてしまうのもやっかいだ。こうした言い逃れにたいして動機づけがはたらくようだと、やったやらないの水かけ論みたいになって、強弁するのを許してしまいそうだ。罰逃れすることにたいして罰をかけられればよさそうだけど、それもできづらいものである。もしほんとうに悪いことをやっていないのであればよいのだけど、それは誰がどこから見ても白のときにかぎられる。黒とか灰色として見ることができるのであれば、権力をになう代理人は自分でその身の潔白を明らかにする務めを負いそうだ。一般論としていえば、代理人は、チェックする目が行き届かないところでずるをするものだと言われている。