たとえ言論であってもテロはテロだと言いたいのだろうか(その逆も言えるだろうけど)

 朝日新聞は言論テロである。こうした内容を述べた意見に、自由民主党安倍晋三首相が同意を示した。フェイスブックに載せられた意見だったので、それにたいして、いいねのボタンを押したのだという。ボタンを押したくらいのことだから、ささいなことであるかもしれない。そのうえで、この意見にたいしていいねのボタンを押したことについては、よくないねとすることもできそうだ。

 そもそも言論テロとはいったい何なのだろうかという気がした。テロというのは公にたいする犯罪をさすものだろう。そして、テロなのかどうかを決めるのは、決める人しだいであるところもある。決める人の思想みたいなのが反映されてくるところがあるわけだ。

 朝日新聞のやっている(やってきた)ことにたいして、少なからぬ不満をもっている人であれば、言論テロと決めつけてしまうのもわからないでもない。しかしそれは、ともすると印象操作にあたりはしないだろうか。ほんとうに言論テロだとして受けとれるところも、人によってはあるかもしれない。しかし、そうして受けとるときの受けとりかたが、必ずしも正しいとはかぎらず、もしかしたら間違っているかもしれない。まったく疑いを入れず、まったく誤らず、とは言い切れないだろう。朝日新聞も誤るだろうが、朝日新聞を見る側もまた誤ることがある。

 まず、朝日新聞を見てみるさいに、動機の点と、結果の点を分けることもいるだろう。結果が悪ければもちろん問題ではあるが、もしかりに動機がよいのだとすれば、そこを部分的に肯定することもできる。肯定するとはいっても、動機がよかったのだから結果が悪くても見逃すべきだ、というのだとちょっとまずい。そのうえで、すべてが悪いとかすべてがよいとするのだと極端になることはたしかである。悪い点をただちに一般化するのだと、一斑を見て全豹を卜(ぼく)すとなる。くわえて、よい点を限定化または無化してしまう。

 テロと一と口に言っても、たとえば明治維新もまた当時の公にたいするテロだという一面もありそうだ。テロリストというと、人相が悪いような悪者が思い浮かべられてくるが、必ずしもそうとばかりは言えそうにない。テロリストは公にたいする犯罪者であるが、それと同時に自由の闘士でもあると言われる。そうした両価的な面をもつ。

 いまいる公にたいして、障害となるような、邪魔をしてくるものがいるとすれば、それを取り除きたいとする気持ちが生じる。そうしてものごとをおし進める速度を速めてゆく。こうした加速度のありかたは、帝国主義によるものでもある。そうはいっても、ものごとが遅々として進まないのであれば、いらだちを禁じえないところもある。いらだちを禁じえないのはたしかであるが、できるだけ避けるべきであるのは、帝国主義的な強引なものごとの進めかたであるということができるだろう。

 朝日新聞が勝つか、それともアンチ朝日新聞の側が勝つか、といったことにならないようにできればさいわいだ。そうした争いはあまり生産的なものではなさそうである。あまり偉そうな立場に立てる分際ではないのはあるのだけど、社会のなかで、いまある公の中心に協力的でない人たちがいるのはごく自然なことである。とくに不自然なことではない。なので、協力的でないものをテロだとして印象づけてしまわないようなゆとりが持てればよさそうだ。

 先の戦争においては、国益を疑わないで、情報をそのまま垂れ流してしまったのが報道機関であり、それによってかえってたいへんな損失と被害をこうむった。これは一つには、国益を疑わないで、情報をそのまま垂れ流さざるをえなかった上からの強い圧力もあったのだろう。こうした失敗をふたたびくり返してしまわないように努めることもいりそうだ。

 思想家の吉本隆明氏は、共同幻想と自己幻想は逆立する、と言っているそうだ。国益というのはどちらかというと共同幻想に当てはまるものである。これを優先させてしまうと、自己幻想である私がないがしろになってしまいかねない。気をつけるべきは、共同幻想の肥大化にあるという指摘はなりたちそうだ。そこへの欲望には歯止めをかけることが期待できない。とめどないものである。どちらかといえば、自己幻想である私のほうこそを膨らませられたほうがよいだろう。