安定を乱す者は、実体(対象化)としてだけでなく、関係としても見ることができる

 多少のえん罪の害があったとしても、それをはるかに上まわる利点がある。共謀罪の法案について、このような意見も言われている。しかしこれは、えん罪の害を過小視しているのではないだろうか。えん罪の害をこうむるのは弱者なわけだから、弱者をできるかぎり尊重するのであれば、その害を過小と見なすことはないほうがよい。

 治安が極端におびやかされているのであれば、できるかぎりすみやかに対策がとられることもいるかもしれない。しかし、はたしてそのようなさし迫った状況にあるのだろうか。もしそうしたさし迫った状況にないのであれば、急いで対策を打つことはいらないのもたしかだ。何も手を打たないよりは、少しでも手を打ったほうがいくらかましだ、という論は成り立ちづらい。

 テロを防ぐだとかいうのは、大きな言葉である。そうであるから、その大きな言葉である点について疑問をもつこともできる。テロを防ぐという名目によって、公にたいする犯罪をとりしまるわけだけど、肝心の公の中心にいる人たちがまちがうこともある。公の中心が守られて、私のなかの特定の者が不当に抑圧されたり差別されたりするのだとやっかいだ。これは構造的暴力と言ってさしつかえない。

 社会の危機だとか、経済(格差)の危機だとかがあって、それが解決されないままになってしまっている。その解決がないままに、代わりになにか特定の者を悪玉と化すことによって、秩序を保とうとする動きもありえる。これだと、本質的な解決にはならないのではないか。秩序が乱れてしまうおそれがあるのは、その根底に社会や経済(格差)の危機があるのだとすれば、そこにたいする直接の手を打つことがいる。いっけんすると迂路ではあるけど、まわりまわって治安の安定にもつながりそうだ。

 手を打つと言ったって、抽象的な机上の空論を述べても意味がなく、具体的なことを言うべきだとの指摘を受けるかもしれない。それについては、実現はややむずかしいかもしれないが、日ごろ社会の中心にはいず、周縁に追いやられてしまっている弱者などにたいして、大きな贈与をすることで歓待(おもてなし)するのはどうだろうか。これはふつうの市場経済の文脈にはよらないものである。

 いまは、自民族中心的な、何々ファーストというのが時流になっているから、それに逆行してしまうところはあるけど、中心にいるのではなくて、周縁または境界(辺境)におかれている弱者の人などをとりわけ優遇または厚遇するというのもひとつの有力な手である。これによって、一部にたいする冷遇が改められて、社会全体が活性化するという効果ものぞめる。この歓待(おもてなし)をするためには、日ごろ内にいだいている常識を相対化しないことにはできないことではありそうだけど。