景気のよいことを言うことと、景気のよくないことを言わないこと

 経済がよくなり、景気が回復する。いろんな指標や率にもそれが出ている。失業率などがのきなみ低くなったりするのは成果だろう。それはそれでよいとは思うのだけど、それをもってしてこと足れりとしてよいものだろうか。

 成果が出るのは一つの充実である。それを光であるとすると、光に照らされていない影みたいなのもある。そうした影があたかも無いことのようにされてしまうのはいかがなものだろうか。表向きは充実した成果が出ているかもしれないが、その裏にはどこかに暗い影があり、空虚さがあると見ることができる。

 いたずらに成果が出たことを否定するのはいらないかもしれない。そのうえで、そうして成果が出たことを前景化してしまうと、ほかの何かが後景にしりぞく。そうした面はあるだろう。その後景にしりぞいた何かを前景にもってゆくことはいる。図がらと地づらを固定させずに交代させないとならない。

 表向きには成果が出たのだとしても、それで話が終わるとはいいがたい。まだまだ成果がおよんでいないところについては、これから先に改善されることがのぞめる。そうした未来に期待をたくす見かたもとることができそうだ。しかしそうした見かたとは別に、表向きにおける成果というのは、裏面での不成果の存在みたいなのを産出する。その不成果の産出は潜在している。それを潜在させたままにするのだと、抑圧してしまうことになるから、表在させることがいるだろう。

 暗い影とか空虚さというのは、ことさらに見ようとしさえしなければ見なくてもすむ。なぜなら目立たないからである。しかし、目立たないから重要ではないとは言い切れない。一見するととるに足りないように思えることであっても、それが要みたいになっていることもなくはない。そうしたわけで、率先して影とか虚ろなところを見つけ出して、明るみにしてゆくことがいりそうだ。歓迎はされづらいだろうけど。