想像していたのとはちがうことの両面

 想像していたのとはちがう。そういうことがあってもよいのかもしれないという気がした。想像していたのとちがっていれば、そこでちょっとした驚きみたいなのがおきる。認識を変化させることができる。よい意味で想像が裏切られることにもなるわけだ。差異がおきる。しかし、想像していた通りであれば、そういうことはおきづらい。

 やや大げさではあるかもしれないが、想像していたのとちがうことで、至高性がおきることがありえる。至高的な瞬間が立ち現われることになる。もっとも、それは経済の合理による回路から外れてしまうことも意味する。なので、たとえばお店で注文した商品が、見本とまったくちがう実物として手元に届けば、不愉快であるだけとなる。そこで怒らずに、まあいいかと許せるような人はほとんどいないだろう(商品の額にもよるだろうけど)。

 想像していたのとじっさいのものとが同じなのであれば、やっぱり想像していた通りだ、という喜びがあるかもしれない。期待が満たされるので、そこには多少の快感がありえる。しかし、自明性や同一性の殻を破ることはできづらそうだ。その殻が破れるところの驚きによる快感は得られそうにはない。合理性は守られるわけだが、それからさらに高次のところには至りづらいだろう。