民意を正しく代弁するとしても、あくまでも代弁であり、生の声ではない

 大手報道機関は、民意を正しくとらえていない。曲げてしまっている。このことは、大手報道機関だけにかぎられない。たとえば野党や知識人(インテリ)にもそれが言える。そうした批判を投げかけることができる。

 大手報道機関が民意を正しくとらえていず、曲げてしまっているのには、つくりごとであるのが関わっていそうだ。あるがままではなく、つくりごとになってしまっている。こうした点において、そもそもつくりごととはいっても、それは程度問題にすぎないというのがありそうだ。多かれ少なかれ何ごともつくりごとであるということができる。

 大きく見てみれば、何ごともたいていはつくりごとの範ちゅうの中に入れてしまうことができる。その範ちゅうの中での価値のちがいにすぎない。そうしたことが言えるのではないだろうか。距離のちがいということもできるだろう。どのみち、ぴったりと距離がくっついているのではなく、わずかであるにせよ距離は離れている。その離れている間隔のちがいがある。

 何かがつくりごとであるとして批判するのは、それが当たっているところもある。しかし、そのさい、反作用というかたちで、自分の側もまたつくりごとであることを隠ぺいしてしまう。そうしたことがおきてくる。なので、その反作用の面に目を向けることもできるのではないか。そうすることで、隠ぺいされたり抹消されていることを明るみに出すことができる。

 生の声を聞くことができればよいわけだけど、それは現実にはむずかしい。生の声を伝えたり受けとったりするのには、何かに媒介されていないとならないからである。何かに媒介されているというのは、媒介に乗っていることをあらわす。媒介に乗ってしまっている時点で、すでに生の声ではない。そこに困難がありそうだ。われわれには、生の声ではなく、せいぜいがその痕跡しか知りようがないのだろう。厳密にいうと、生の声は誰にも表現することができないし、到達もできそうにない。