課された要求を平然と無視できるほど、神経が太い人ばかりではない

 学校の先生の過労死は、ほんとうにあるのか。大人なんだから、きつくなれば自分の判断で休むなり何なりできる。働きすぎよりもむしろ、さぼりすぎるようになるほうがまずい。元自衛隊航空幕僚長田母神俊雄氏がこのような意見のツイートをしていたのを見かけた。テレビで先生の過労死について特集をしていたのを見ての感想のようだ。

 いま日本には、国際労働機関(ILO)の事務局長が来ているそうだ。そのガイ・ライダー氏に言わせると、日本の過労死(カローシ)の語は悪い意味で世界にまで広まっているという。かつては日本人は仕事中毒(ワーカホリック)なんていうふうにも揶揄されていたという。そうしたありかたを改めることはいるだろう。なにもわざわざ、ILO の事務局長が来日しているときに、過労の害を軽視することを言わないでもよいのになあ、という気がしてしまった。

 過労については、単純に、ひどく疲れたから、少し休んで何とかなる、といった気楽な話とはいえそうにない。鍛えれば強くなるものでもなさそうだ。くわえて、精神論で気合いを入れればどうにかなるといったこととも言いがたい。ひとつには、一人の労働者に負担が行きすぎてしまうことのやっかいさが挙げられる。

 一人の労働者に負担がゆきすぎてしまうのは、要求(リクエスト)がそこに集中してしまうことによる。これは、人手不足なんかによっておこってしまうものだろう。一人の人間がいくら有能であったとしても、さばくことができる要求の量は、その数が知れている(限度がある)と見なければならない。非人間的な要求を押しつけられてしまえば、その圧に耐えきれなくなって爆発してしまうこともおきてしまう。

 自分でさばききれるくらいの量であれば問題はない。しかし、適切な量を超えてしまうようであれば、共有地の悲劇がおきかねないから、そこに気をつけることはいるだろう。この悲劇によって不幸にも犠牲となってしまった人はけっして少なくはない。こうした人は、まったくの無実であり、社会によって他殺されたと見なければならない。このようなことはできるだけおきないようにすることがいる。そのためにも、これ以上はいくら何でも非人間的だといったような、労働時間の量の規制というのはあったほうがよさそうだ。すべての人が超人的なわけではないだろうから。

 生活の糧を得るために働くことがいる。そうした面はあるわけだけど、それ以上の意味あいを付け加えて、なにか美談のようにしてしまうようだと支障がなくもない。労働が文化価値をもってしまう。労働は自由につながるとは、ナチズムがかつて掲げた標語だった。しかし現実にはそうであるとは言いがたい。すくなくとも、資本主義による蓄積再生産にうまくそぐうようなものであるようだと、そこに本当の豊かさがあるとはいえないだろう。資本主義では、質がないがしろになり、計算可能な量が重んじられるきらいがある。