そもそもについての政府による閣議決定を勝手に忖度してみる

 そもそもには、どのような意味があるか。これについて国会でやりとりされている。この議論自体がくだらないとする見かたもされている。たしかにくだらないところがあるかもしれない。それは否定できないところだろう。枝葉ではなく幹についてを論じ合うべきだというのは正しそうだ。

 そもそもには、ことの発端という意味もあるわけだけど、なぜそもそもの語が国会でとりざたされたのかというと、次の答弁においてがきっかけであるようだ。オウム真理教は、そもそも罪を犯すことを目的とする集団に当たるかどうか。この答弁の中のそもそもを基本的にの意味で説明した。説明したのは、自由民主党安倍晋三首相である。辞書にもそのように載っていると安倍首相は主張した。

 政府は閣議決定までして、そもそもには基本的にの意味があるということにしてしまった。なんで閣議決定までしたのかというと、共謀罪の法案をどうしても通したいからだろう。そこで、政府の閣議決定をもうちょっとちがった角度からも少しつっこんで見てみることができそうである。

 角度を少しずらしてみると、このように言えそうだ。政府としては、そもそもの語に、基本的にの意味があるのでなければならない。(法案を通すために)どうしてもそうでないと困るのだ。そうあるのでなければならないというのは、あるべきだということである。あるべきだというのは、そうした価値意識をもっていることをあらわす。つまり、価値から事実を導いている。

 価値から事実を導くのがまったくもってだめだとは言えない。しかし、もしそうするのであれば、せめてほかの在野の識者(言語の専門家など)なんかから広く意見を聞くのがのぞましい。そうした過程を踏むのがあってもよい。それを抜きにしてしまうようだと、まちがった価値からまちがった事実が導かれかねない。

 そもそもの語はどだいとも言い換えられ、どだいは土台だから、基本的にという意味が言えるのだ、と政府はしているようだ。このどだいは、辞書にはひらがなで書かれているようだから、漢字の土台とはちがうとも指摘されている。どだいを土台とするのはうっかりして見まちがえたというより、意図的な力づくの理屈づけみたいなものだろうか。

 そもそもはどだいであり、どだいは土台である。その土台から基本的にの意味があらわせる。こうした見なしかたは、何となく連想ゲームのような気がしてくることもたしかだ。連想ゲームとして見てみれば、よくできました、と言えないこともないだろうが、それとは別に、論理としてきちんと通るかどうかといった点もないがしろにはできそうにない。そこが肝心なところだろう。

 そもそもの意味にこだわるのは、それ自体がくだらないことだとも言える。しかし、もしかりにくだらないことであるのなら、そもそもの使いかたがまちがっていたことをすんなりと認められるはずだ。そうしてすんなりと認められず、いささか強引ともいえる弁解をしてしまっているのは、くだらないことではないことを示していはしないだろうか。なので、そもそもの使いかたについてこだわって批判なんかを投げかけることについて、いちおう意義はあるのかなという気はする。言葉の上っ面だけをあげつらってもしかたがないかもしれないけど。