内容にくわえて、形式の面に託されているねらいもありそうだ

 けっして教育の場で教材として用いることを禁じはしない。自由民主党安倍晋三首相が率いる内閣は、教育勅語についてこのような指針を下した。その許可というのは、あくまでも憲法教育基本法には反しない範囲においてというただし書きがついている。

 教育勅語に書かれている内容について、必ずしも悪いことは言ってはいないとする意見もあげられている。今にも十分に通ずることを言っている。だから、頭ごなしに否定されることはない。よいことを言っている部分もあるのだから、そこを肯定的に評価することができるではないか。

 なかにはよいことが書いてあるにはあるわけだけど、しかし今から見ればそぐわないところもある。そのような指摘もされている。かつての時代はいまよりも男尊女卑がまかり通っていたのがあり、その精神が内容にしっかりと反映されてしまっている。たとえば夫婦の関係においても、たがいが対等であるのではなく、夫に妻がつき従うことをもってよしとしてしまっているそうだ。くわえて、いざというときには、当時の天皇(陛下)に国民が仕えることが暗に強いられてもいる。

 教育勅語を教育の場で使うことは、必ずしも禁じられはしない。この決定には、どのような意図が見いだせるのだろうか。ふつうに見たら、そこに記されている内容の是非が問題とされてくる。しかしそれにくわえて、形式の面もけっこう重要なのではないかという気がした。

 作家の井上ひさし氏によると、日本語には大きく漢文と和文の面があるという。この 2つが混ざり合い、現在の日本語はなりたっている。それでいうと、教育勅語はどちらかというと漢文からの影響が大きいものである。漢文はその昔、公家である男性貴族によって、公的なことを記すために用いられたものだという。したがって、漢文には公の色が強く出る。

 漢文とはちがい、和文は私的なことについて記すのに適しているそうだ。この当てはめからすると、教育勅語を教育の場で使うことを必ずしも禁じないのには、公の意識を植えつけようとする思わくが見てとれそうである。(戦前や戦中においてあった)領域としての国家の公は、あまりにも行きすぎた暴走をしてしまい、私をいちじるしく押しつぶしてしまったわけだ。その国家公の領域をふたたび広げようともくろむ反動的な動きもないとはいえない。

 国家による権威主義は、ちょっとした気のゆるみや弱みに巧みにつけこんでくるほど、油断がならないところがある。もともと気持ちのうえで不確実感があると、そこをねらって忍びこんでくる。そうした国家主義によるイデオロギーの力は、したたかであり、けっしてあなどることができそうにない。国家という大に事(つか)えるのではなく、できれば個人のほうにより重きをおいてほしいところだ。そのほうが、過去のあやまちをくり返すことを少しでも防げる。

 内容はひとまず置いておくとしても、形式から見ると、教育勅語は漢文によっているところが大きいので、公を重んじるありかたへとつながっていると見てとることができる。漢文というのは、何か大きな説をぶち上げるのに適しているものだという。これは政治家の人にとっては親和性がある。政治家の人もまた、しばしば大きな言葉を好む。そうした大きな言葉(声)による公的な大状況だけでなく、むしろ私的な小状況からの小さい声なんかもできるだけとり上げてすくいとってくれるようなことがあるとよい。小さい声も十分に尊重されればよいという気がする。理想にすぎないのはあるが。