捨て石になることに失敗する

 自分が捨て石になってでも、議論が巻きおこればよい。こうした姿勢は、もしそれが本当にできるのであれば見上げたものだとは思うんだけど、じっさいにはむずかしそうだ。この姿勢のとおりにできれば、建設的な議論が活発化する。しかしうまくゆかなければたんなる口げんかになるだけだろう。悪くなれば、見下げはてたありさまにもなりかねない。

 自分が捨て石になってでもという手法は、自分が汚名をかぶるということにほかならない。汚名をかぶったとして、それを引き受けて耐えてゆくのにはかなりの器の大きさがいりそうだ。自分がもっている人としての器の容量をもし正しくとらえ損なってしまっていると、見こみちがいがおきる。(大きな器という)必要条件を満たせていないため、とうてい耐え切れるものではない不愉快な状況に置かれてしまうことになる。

 不当に自分が非難されるなどして、汚名をかぶってしまったとしよう。そこでその汚名を返上しようとしたり、名誉を挽回しようとするのは、とくに不自然なことではない。不快であるためだ。しかしそれをやってしまうと、自分が捨て石になったことにはならなくなる。だから、自分が捨て石になってでもという手法は、失敗してしまう。この失敗はなぜおきるのかというと、二重拘束(ダブル・バインド)に置かれてしまうせいがありそうだ。もともと無理な手法を使っていたわけである。

 人間というのは社会の関係において、その網の目の中にある。そのなかで、関係的な欲望をもつ。なので、何らかの汚名を受けてしまうと、欲望に火がついてしまう。この火を自分で消そうとするのはかなり困難なことである。いったん火が大きくなれば、それを小さくしようとしても焼け石に水となってしまう。進んで火の中に飛びこんでゆくようなまねは、できればやめたほうがよさそうだ。気がついたら、自分ではなく、他人を捨て石にさせようと仕向けることにもなりかねない。なるべく欲望は適度なところにとどめて、大きくならないようにして、それを抑えつつであったほうがのぞましい。易しいことではないかもしれないけど。

 議論を巻きおこすつもりが、ののしり合いに横すべりしてしまう。こうなってしまうとやっかいだ。嫌がらせの精神みたいなのが発動してくることになる。これを少しでも防ぐためには、できるだけ説明の経済性(省略性)をとらないようにしたほうがよい。たとえ不経済ではあっても、他者の目線みたいなのをとり入れて、まわり道を経たほうがよさそうだ。これがないと、対他的な甘えにおちいりやすくなる。そうしたことは指摘できるだろう。