独裁主義や全体主義では、差別を手法として用いたのだろう

 ナチズムには差別が内に含まれているので、表現の自由には値しない。そうであるのなら、共産主義にもそれが言えるのではないか。こうした指摘があったんだけど、そもそも、差別が内に含まれているから表現の自由には値しない、とはいえないのではないかという気がした。表現の自由に値しないかどうかは、公共の福祉に反するかどうかによるとされる。なので、差別が内に含まれているかどうかはまた別な問題なのではないか。

 表現してはいけないというわけではなくて、公共の福祉に反しない形であればそれは可能だろう。なので、そのような形になるように工夫して語ればよいのではないか。たとえば憎悪表現みたいなふうになってしまうと支障があるが、そうではないようなものであれば、まちがいの経験から教訓を得ることもできる。

 差別だからだめだったというよりは、独裁主義とか全体主義だったからだめだったということもできる。そこがごっちゃになるのはどうなのだろう。少なくとも、差別というのに集約はできなさそうだ。差別から悲劇がおきたということもできるだろうけど、それと同時に、一国のなかで全体化がなされてしまったために、ただ一つの教義(ドグマ)だけしか許されないようなふうになったのだろう。

 共産主義といっても、キューバなんかは必ずしも失敗したとは言えないのではないか。医療なんかが充実していて、アメリカから病を抱えた人が訪ねてくるくらいだというのもあるそうだ。医療などの福祉に力が入れられていて、みんなの生活が保障されている。そこには、完ぺきなものではないにせよ、友愛と平等がなしとげられていた面がありそうだ(少なくとも資本主義よりは)。

 共産主義ばかりではなく、資本主義においてもまた、差別による悲劇はおきているのではないかという気がする。それは現在進行形の形としてありそうだ。経済格差で貧しい側に立たされてしまうのには、本人がそう望むのでないかぎり、とくに正当な理由がない(いろいろな理由づけはできるにしても)。労働のなかで不当に搾取されてしまうこともある。くわえて、健康で文化的な生活を送るのに欠かせない基本的必要さえままならないような人も少なくはなさそうだ。こうした問題が放置されたままになってしまっているのが現状なのではないか。

 差別というのは、どのような社会であっても、その根底に存在しているものと見なせる。なので、それをできるだけなくしてゆくこともいるだろうし、満面開花させないように気をつけてゆくこともいりそうだ。共産主義は、歴史においてそれを満面開花させてしまったことがあるかもしれないが、資本主義もまたけっして人ごとではないだろう。

 いま資本主義がまがりなりにも成り立っているのは、社会主義による社会化がなされて、純粋な資本主義という形をとってはいないことにもよっている。社会化された資本主義となっている。これは社会主義の残した正の功績であると言ってもさしつかえないだろう。たんなる市場主義だけであれば、経済格差がとんでもないことになり、早々に立ちゆかなくなることは間違いなさそうだ。

 歴史的に悲劇をうんでしまったようなまちがった過去のできごとでも、それを語り継いでゆくことの意義というのはありえる。自由主義史観みたいにして、それを都合によって修正してはまずいことになりかねない。個人的なことであればまた別かもしれないが、集団のことであれば、過去のまちがいについてたえずくり返し反省する態度をとることにも意味はありそうだ。これは、差別に当たるかどうかとはまた別なことがらといえるだろう。