読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

優先度として、どちらが上でどちらが下なのだろう

 自衛隊は、あきらかに軍隊である。そうした自衛隊のありかたがよくないからといって、それなくしてやって行けるとは、大かたの人が思いはしないだろう。自衛隊がなくてもやって行けるというのは、ちょっと現実味に欠けてくる。なので、自衛隊のありかたを認めながらも、憲法(の 9条)を守ろうというのは、おかしな態度である。筋が通っているとは言いがたい。

 この意見には、一理(以上)あるとは思うんだけど、でも腑に落ちないところがあるなという気がした。それというのも、なんで自衛隊憲法のうちで、自衛隊のほうを優先させてしまうのか、という点である。そうではなくて、憲法のほうを優先させるのでもよいではないか。そのように感じるのである。

 自衛隊すなわち軍隊であり、軍隊すなわち憲法違反である。憲法違反には、憲法を修正することで対応できる。たぶん、このようなとらえかたになっているのだろう。こうしたとらえ方もありだとは思うけど、この一つだけが正解であり、これしか見かたとして許されないというわけでもないのではないか。ほかの見かたもとることができそうである。そこは多論理(パラロジー)みたいなのがとれそうだ。

 憲法では、戦争の放棄や戦力の不保持をうたっているわけだけど、専守防衛までは否定していない、とする解釈もなりたつ。そのように言われているから、専守防衛の部隊として自衛隊を位置づけることができる。こうすれば、合憲のなかに自衛隊を置くことができる。

 いや、そんなこと言ったって、自衛隊はすでに軍隊ではないのか。その現実に目をつむるというのか、との批判もありえる。この批判にたいしては、もしかりにそうであるとしても、そこから一義的に憲法を修正するという流れは導かれづらいのではないか。手だての一つとして、自衛隊を軍隊でないようなありかたに変える、というのもありだろう。

 自衛隊の現にあるありかたを認めるために、憲法を修正するべきだ、というのは、一理(以上)あるわけだ。しかしそこには、ともすると憲法よりも(現にある形での)自衛隊をとってしまうという、とりちがえがおきていはしないか。憲法というのは、国の形を大づかみに定めたものでもあるのだから、そこに自衛隊が従属すると見たほうが、しっくりくるような気がする。これが逆に、自衛隊憲法が従属するとなると、ちょっと話がおかしいような気がしないでもない。

 けっして中立的な意見ではないことはたしかで、護憲派の立場に立っているのはあるのだけど、憲法が硬性化されているという点は、小さくはない要素だといえそうだ。硬性化されているということは、変えづらいわけである。とはいえ、どんなことがあっても変えてはならないだとか、どうがんばっても変えることができない、というわけではない。そのうえで、憲法自衛隊のあり方とを比べると、どちらが変えづらいのかといえば、憲法のほうがより変えづらい、という見かたもなりたつ。変えづらいものを無理に変えるというのも、どうなんだろうという気がする。半世紀以上も変わらずにこれまできたのもある。もっとも、それをうら返せば、今がちょうど変える潮目だ、という見かたもとれるのだろうけど。

 ここは見かたが分かれてしまうところではあると思うのだけど、追加的な利害という観点をふまえることができる。この観点をふまえてみると、自衛隊を軍隊であるとして、憲法を修正するのには、追加的にかかる労力や費用がかなりあるのではないか。そうした労力や費用を大幅に上まわる利益があるのかといえば、一部の人にはとりわけあるかもしれないが、全体にとっては定かとは言いがたい。それにくわえて、かりに全体にとってたしかな利益があるとしても、それだけで終わる話ではなく、新たに加わってしまう害もおきてくる。この害をあたかも存在しないものとして見なしてしまうのは、賛同できないところである。

 新たに加わる害なんていっても、そんな抽象的な論を振りかざすのは机上の空論にすぎない、なんていう批判もあるかもしれない。具体的に何が害として新たに加わるのかをはっきりさせよ。このように言われると、いささか耳が痛いところである。そのうえで、たとえば、害として挙げられるものには、これまでの積み上げの破壊というのがあるだろう。戦後にこれまで大切に積み上げられてきたものを、そうたやすくぶち壊してしまってよいものなのだろうか。これは慣習や伝統といったものでもある。こうした戦後の慣習や伝統をすべてまちがっていると見なすこともできなくはないだろうが、そうした見かたが(極端にいえば)すなわち乱暴なぶち壊しにつながる。そのような動きへのおそれをつい抱いてしまう。つくるよりも壊すことのほうが簡単だ。

 いたずらな破壊はどうしても避けてほしいところである。すくなくとも、そう見なされるようなおそれのある要素を、できるかぎり払しょくしたうえでないと、疑いをもたれてしまってもしかたがないのではないか。これは二重拘束(ダブル・バインド)の状況にも通じてくる。けっして悪いようにはしないから、と言われたとしても、悪いようにする魂胆が透け透けであれば、そのどちらの信号(シグナル)を本当のものとして受けとるべきか迷ってしまう。認知に不協和がおきる。

 すべての破壊がだめだというのではない。両義的であるにせよ、破壊的な性格の者がすべからく悪であるとはいえないものだろう。そのうえで、破壊するのをめざすのであれば、それが乱暴や横暴なものではないことを身をもって証明することがいる。この自己証明の努めを怠っているような気がしてならない。たんに信用しろだとか、または力づくであるとか、数にものを言わせるというのでは、途中の段取りがすっとばされていて、あまりにも性急に映ってしまう。

広告を非表示にする