沈黙と服従

 自衛隊の隊員の人たちは、いざというさいに自分の命を捧げてまでも国を守る。そうであるのだから、自衛隊の存在をあいまいなままに放っておかずに、きちんとした位置づけのもとに置くべきである。そうしないと、やりきれないではないか。

 この意見において、まず、前提についてどうしても全面的には賛同ができづらいと感じてしまう。というのも、そもそもが、自衛隊の隊員の人が、できうるかぎり命を捧げずにすむような環境を、全力をかけてつくり上げるべきだという気がするからだ。まずそれがいちばん最初にきたほうがよいのではないか。

 自衛隊の隊員の人が、国のために命を捧げるという前提には、可能なかぎり立ちたくはないのである。いや、そうはいっても、そうした使命を負っているからこそ、隊員として活動しているではないか、との指摘もなりたつ。しかし、必ずしもそうとは言えないのではないか。隊員の人たちに、使命を一方的に押しつけてしまうことになりかねない。

 国を守るという使命をいっさい負ってはいないというふうにしてしまうと、それはそれで行きすぎなのかもしれない。とはいえ、では国を守る使命というのをどこまでも拡大できてしまうとなると、それは避けたほうがのぞましい。拡大していってしまうと、切りがないからである。

 あくまでも浅はかな想像の域を出ないかもしれないが、自衛隊の隊員の人たちは、多数いるわけだから、その人たちがみんな同じ考えかたをもっているとはいえそうにない。色々な考え方の人がいるはずだ。であるから、その色々な考えのありかたを尊重すべきである。これは憲法でも保障されていることではないだろうか。

 そういったなかで、たとえば中には、できるかぎり自分の命を犠牲にはしたくはないという人がいたとすれば、その人の考えを全体の基準にすることはありだという気がする。なにも、自分の命を犠牲にすることをまったくいとわないという人の考えを全体の基準にすることはない。

 アメリカと日本は安全保障で同盟を結んでいるわけだけど、アメリカは日本をいざというときには守るのに、日本は守らなくてもよいのか、との指摘もなされている。しかしその指摘の前に、アメリカはアメリカで、なるべく自国の兵士の人を犠牲にしないですむように、工夫をこらして立ちまわるべきである。そして日本は日本で、自分の国の隊員の人をできるかぎり犠牲にしないですむように、工夫をして立ちまわるべきである。こうすればよいのではないか。

 どうしても欺まんをまぬがれないとは思うのだけど、いくら自衛隊の隊員の人が、国を守る使命を負っているとはいえ、できるだけ国内における警察権の域を出ないようにしたほうが、失われる命が少なくなることが見こめる。殉職というのもできるだけゼロであるほうがよいわけだけど、それを越えてまで、何か政治的崇高によるロマン的なものを背負わされては、かなわないところがある。そういう崇高やロマン的なものがよいとするのなら、意思決定をになう政治家の人が、自分で直接に危険地帯にゆくべきだという気がする。それであれば自主的であり、他から動かされてはいないから、他が強いて止めるには当たらないかもしれない。