本質という準拠点は、絶対的なものであるとは言えそうにない

 本質に目を向けよ。そこをとっかかりとして足場にすることで、真に意味のある話をすることができる。そういうふうな本質主義みたいなのがある。たしかに、本質的でないことばかりに目を向けてしまっていれば、本質的な話ができなくなることはあるだろう。したがって、本質になるべく目を向けてゆくことがいるという指摘はそれほど間違ったものとはいえそうにない。

 そうはいっても、あまりに本質を重んじてしまうと、人間中心主義みたいなことになりかねないあやうさがありそうだ。人間中心主義というのは、人間と自然とを二項対立させる見なしかたである。これになぜ本質が関わるのかというと、人間と本質とをイコールでつなげることができるからにほかならない。自然は何とイコールになるのかといえば、そこには非本質を当てはめることができる。

 本質を上として、非本質を下と見なすのは、人間を上として、自然を下と見なすことに通ずる。これは、人間が自然を支配するありかたとなる。一方的に搾取する。これをうら返せば、自然が人間に支配され搾取されることになるわけだ。

 人間が自然を支配することに、いったい何の問題があるというのか。とくに何の問題もないではないか。そのようなふうにも見ることができる。そのうえで、もし問題があるとすれば、それは人間が自然を支配してしまうことにおいて、とくに何の正当性もないことがあげられるだろう。勝手に人間が決めたことにすぎない。

 自然は人間ではないわけだけど、非本質というのは人間のありかたの一つである。したがって、本質と見なされる人間が、非本質と見なされる人間を支配することにつながりかねない。これはあまりのぞましいあり方とはいえないものだろう。そもそも人間は、誰からも支配されず、また逆に支配せずにいることができれば、それに越したことはない。

 非本質であるよりかは、本質によっていたほうがどちらかといえばよいわけだけど、だからといって、本質たる人間が非本質たる人間をしいたげてもよいということにはならない。人間が自然を支配するといったような図式にならないようにできればのぞましい。

 そうしたようなことで、本質主義よりも遠近法主義(パースペクティビズム)であったほうがよい。個人的にはそのように感じる。自分の本質というのを、たまにはカッコに入れて、哲学の現象学でいわれる還元することができたらさいわいである。

 本質というもののなかには、たとえば現実であるとか、または国家であるとか、もしくは民族であるとかいうのを代入することができる。それが先立つとするのが本質主義であるだろう。しかしそうではなくて、実存主義でいわれるように、実存のほうが本質よりも先立つ、というふうに見ることもできる。こうしたありかたをたまにはとってもよいだろう。