五輪の開催に合わせるのは、時機としては適していないのではないか

 2020年の東京五輪において、憲法の改正もそれに合わせてめざしてゆく。安倍晋三首相はそのように述べているのだという。2020年を、新しい憲法が施行される年にしたいそうだ。これについては、正直いって反対の気持ちである。

 なぜ、国際的なスポーツの催しである東京五輪に合わせて、憲法の改正をおこなおうとするのだろうか。そこが腑に落ちない点である。安倍首相のねらいというのは、なんとなく透けて見えてきてしまうところがあるのもたしかである。といっても、浅い見かたをしてしまっているかもしれないから、間違った勘ぐりであるかもしれないのだけど。

 2020年の東京五輪では、ほぼまちがいなく国民の気持ちは高揚する。気持ちが高揚しているというのは、冷静な判断をするような状況にはないことをしめす。いわば、気持ちが浮かれてしまっているのである。そういうところをねらって憲法の改正をはかろうとしているのではないか。五輪のもっている勢いを借りるようなかたちで、憲法の改正もやってのけようとするようなあんばいだ。

 五輪のもっている勢いを借りるようにしてやるのには、賛同できそうにない。逆にもっとしめやかな状況のなかでやるのがふさわしい。というのも、先の大戦において、内外でもたらしてしまった深刻な被害をふまえて、その負の経験が憲法には色濃く反映されているからだ。教訓が盛りこまれ、(一文字一文字に)血と汗と涙が刻みこまれている。決してあってはならないことだが、多くの無実の血が流されてしまった。同じあやまちを再びくり返すことがないように、これからの世代にたくしたその誓いと願いというのは、決して軽いものとはいえそうにない。そこからは、廃墟の大いなる痛ましさを読みとることができる。

 五輪は五輪として、商業的な催しでもあるから、そこで盛り上がるのはけっこうなことであり、とくに問題はない。しかし、それと憲法の改正をからめてしまうことにはどうしても納得できないし、できれば避けてほしいという気持ちがしてくる。それぞれを切り分けてやれるほど器用にできるとは言いがたく、いっしょくたの気分でやってしまいそうなありさまがつい頭に思い浮かぶ。

 五輪というのは、スポーツの競技をするわけだけど、それは国どうしの戦であるといったところもなくはない。なので、そうした催しと、憲法の改正をからめてしまうのは、ちょっと軽率な気がしてこないでもない。そこは、もうちょっと神経を使ってもよいところなのではないか。もっとも、これはいささか難癖をつけているように受けとられてしまうかもしれない。たんなる連想にすぎないともいえそうだけど、先の大戦では、必ずしも必要でなかった国どうしの戦によって、内外に多大なる被害をもたらしてしまったことは、(しつこいようだが)やはりどうしても意識しておきたいと個人的には感じている。

 先において、一文字一文字に血と汗と涙が刻まれているというふうに言ってしまったが、これだと、一文字も変えたり動かしてはならないみたいに受けとられてしまうかもしれない。そういうふうに受けとられるとすれば、それは自分の本心ではないことはたしかである。ただ、こめられた(歴史の流れによる)意味として、軽いものではないとしてみたかったのである。

 どうしても歴史のできごとというのは時間がたつことで風化してしまう面はいなめない。それはしかたがないところもあるが、その流れにのるようにして忘れ去ってしまってよいものではないだろう。忘却とは、より深い記憶のことでなければならない、と作家の安部公房氏は言っている。記憶というのは確固としたものとはいえないから、どうしても揺らいでしまうような面があるが、そのうえで、過去への追憶と哀悼ということがあったほうがのぞましい。

 すでに追憶や哀悼は十分にやってきているではないか、との指摘もあるいはありえるかもしれない。たしかに、まったくやってきていないわけではないだろうが、それはきわめて不十分なものであるのではないだろうか。ごく表面的なものにとどまってしまっているということである。他人にばかりとやかく言って、自分はきちんとできているのかといえば、これもまた不十分であるのは否定できない。であるから、過去への追憶や哀悼というのはできるかぎり重点をおいてやってゆくのがのぞましい。未来を見すえるのは、それが十分になされてからでも遅くはないし、そのほうがよりよい形になりそうだ。

 今の時代の状況から見て、そぐわないようなしろものになってしまったから、それを変えないとならない。そういう見かたはありえるわけだけど、その見かたとはまた別に、われわれの側の理解のありかたが関わってもくる。時代とのずれがあるというのは、それをうら返せば、今の時代の状況への(よい意味での)批判があらわれているとも見なせる。その批判を軽んじて無視するのではなく、(たとえ耳に痛くても)しかるべく受け止めたほうがのぞましいのではないか。

 地と図でいえば、今の時代を図に当てはめられる。そうすると、古くなってしまったものは地に当たるわけだ。しかしこれを逆にすることもできるのである。今の時代を地にすることもできる。これは見るさいの焦点の当てかたのちがいによっておきることだ。したがって、現在の地点を一義的に重んじることはできづらい。そこに視点を固定化することは必ずしもできそうにない。相対化できるわけである。

 チャールズ・ダーウィンの進化論みたいにして、現在の地点にいるわれわれが、これまでのものと比べてもっとも優れているとはならないだろう。いわば進化の頂点にいるかのように、われわれ自身を当てはめてしまってはちょっとまずい。そういったわけで、たとえ古くなったしろものであったとしても、現在の状況とのずれにおいて、必ずしも現在の状況のほうを正しいものとすることはできそうにない。そこは、少なくとも検討の余地があるのではないか。現在の状況のほうこそがまちがっているかもしれないからである。

 過去と比べて、進化したり発展したところもあるだろうし、また逆に退化して愚かになったところもあるかもしれない。なので、総合して見るとどうだかわからないところがある。そういうところからすると、現在の状況を優位において、過去のしろものを劣位(下位)におくのには、疑問の余地が残る。そこは対等にすることもできるのではないだろうか。過去のしろものからの、現在への批判的なまなざしというのは、見すごしがたいものがあるような気がする。