機が熟したのだとしても、さらによりいっそう機が熟すのを待つという安全策もある

 憲法改正への機は熟してきた。そのように安倍晋三首相は語っている。いままでのように、護憲か改憲かといったやりとりは、それをいくら積み重ねたとしても、もはや不毛である。あまり意味のあるやりとりとはいえなくなった。なので、いままでよりもさらに一歩を踏みこんだ、具体的な行動をとるべきときが来たと見なすことができる。

 安倍首相がいうように、はたして憲法改正への機がほんとうに熟してきたのかどうかは、疑問の余地があるような気がする。そこまで議論が深まっているとはいえないのではないか。そして、護憲であるべきか改憲するべきかのやりとりが不毛であるというのであれば、機が熟したか熟していないかのちがいもまた不毛といえなくもない。

 なぜ、機が熟したか熟していないかのちがいが不毛であると言えるのか。それは、仮の話でいえば、たとえ(安倍首相がいうように)機が熟していると見なしたからといって、そこで速やかに国会で改憲の発議を発して、国民投票にかけるのは性急にすぎるからである。

 一つのやりかたとして、もし憲法改正への機が熟してきたとしても、さらに機が熟すのを待つようにして、より慎重な手順を踏むというのがあるという。改憲の発議をして、そこから切れ目なしに国民投票にかけてしまうのではなくて、そのあいだに 2年くらいの空白期間をもうける。その期間のあいだに、はたして本当に改憲がいるのかどうかを、あらためてより慎重に見てゆくのである。

 たとえ機が熟したからといって、そこで急ぎ足に国民投票までもってゆくことは、必ずしも有益にはたらくとはいえそうにない。そこはあえて(加速度ではなく)遅速度をもってして、その必要さに欺まんやねつ造がないのかどうかを、つぶさに見てゆくのがよいのではないか。1回だけではなくて、何重(幾重)にも機が熟すのを待つようにするのである。

 買いものでいえば、改憲の発議をして速やかに国民投票にかけてしまうのは、衝動買いに通ずるところがある。これだと意思決定を失敗してしまうおそれがいなめない。買いものにおいての衝動買いを避ける工夫のようにして、いったんあえて間を置くというのは必ずしも不適切な抑制のかけかたとはいえないだろう。ひと目見てどうしても欲しいと強く思ったものでも、そこですぐに買おうとしないで、一定の期日をすごすあいだに気持ちが変わることがある。じっさいにはそんなに欲しくはなかったんだとなれば、無駄な買いものをしないですんだわけだ。

 憲法というのは、基本としては原理を示したもので、それは大づかみな価値の方向性をあらわしたものだとされる。であるから、その大きなくくりの価値のなかで、解釈によって許される範囲にとどめておくべきではないか。あとは、憲法の中身を変えるのではなくて、法律をつくることでできてしまうことは、それですましたほうがのぞましい。もっともこの意見は、護憲派に近いものだから、中立的な意見であるとはいえないものだろう。

 憲法が、原理として、価値を示しているとはいっても、それをすべての人が正しいものであると見なすばかりではないのだろう。それはしかたがないことかもしれない。そのうえで、自己保存というのが関わってきてしまう点がやっかいだ。自己保存には自己破壊がふくまれていて、これは自虐とも見なせるものである。この自己破壊を外に向けてしまうと他者破壊になってしまう。自己保存(力への意志)の肥大化による他者破壊への流れは、歴史的にいって、たやすくそうしたほうへ流されていってしまうところがあるのはおそらく否定できそうにない。万人が争い合う相互敵対状態(戦争状態)は、今われわれが置かれている人間関係(国際関係)のありようの一つだ。

 歴史の見かたにはいろいろな立場があるかもしれないけど、一つの見かたとしては、先の大戦において、日本が国として国内および国外の多くの人に多大な被害をもたらしてしまったことがある。そうした深刻な他者破壊のありようを、いま一度あらためて見てみることもいるのかもしれない。そこには、自民族中心主義(エスノセントリズム)だったり、盲目的愛国主義(ショービニズム)だったり、国家宣揚的愛国主義(ジンゴーイズム)だったりといった、反省することができる材料にはこと欠きそうにない。

 滅私奉公のように、国家の公が幅をきかせ、私を押しつぶしてしまったのは、歯止めなき国家主義の暴走によっていた。そうした国家主義をあらためて、個人主義によるようにする。個人主義によるからといっても、国家がまったくいらないとしてしまうようだと、無政府主義みたいになってしまうから、極端になってしまうかもしれない。そのうえで、公をふくらませてしまえば、私がやせ細りすり減って削れてしまう。そうではなくて、(一人ひとりの)私をふくらませられるようなありかたがのぞましい。あるいは、公と私のあいだをつなぐ、共という媒介があるとされるので、それを何とかして形づくるようにできればよさそうである。

 日本の過去にやったことが、ただ一国だけ単独で悪かったとはいえないにしても、後づけで正当化ないし合理化してしまうようであればそれはそれで問題だ。振るってしまった暴力の痕跡というのが残されているわけだから、その痕跡をすべてみなつくりごとだと見なしてしまうのは自己弁護のしすぎになりかねない。もっとも、もし強引な自己弁護でないのであれば、申し開きくらいはあってもよいだろう(一方的に言い分をのまなくてもよい)。

 その負の痕跡がたとえ小さなものであっても、それのもつ意味は決して小さくはない。小さな負の痕跡にも、まともに向き合うべきである。小さいものだからこそ、むしろそこに(大きなものにはないような)重要さがあるとすら言えなくもない。そうしたことをふまえたうえで、作家の星新一氏が言っていたことなのだけど、過去にペーソスをもち、未来にユーモアをもつ、といったように(悲観と楽観のどちらかに極端に偏らずに)つり合いがとれたらよさそうだ。