来年から楽をすることの妥当さ

 来年から楽をするのはずるい。学校の PTA の活動をある時点でもしやめるにしても、それまで PTA にたずさわっていた人が、不当に苦労していたことになってしまう。浮かばれないではないか。こうしたところから出てきた意見なのだろう。正直いって、この意見は分からないでもないなという気がしてしまった。

 たとえば教育の無償化なんていう案が、憲法の改正とからめて訴えられているけど、これにも同じようなことが言えそうだ。もしこの案が現実になって、さあ来年から教育は無償化ですよとなったとすれば、来年から無償になるのはずるい、ということも言えるのではないか。それまで有償で苦労して負担していた人の苦労はいったい何だったのだろうか。浮かばれないような気がする。

 もし現状のありかたがまちがっているのだとすれば、それをそのままにせずに、変えてゆくことはあったほうがよい。それは大かたの人がそう思っているところだろう。そのうえで、新たにおきてきてしまう不平等の問題というのがある。時間または空間の分断による。この不平等はどうやって解決したらよいのだろうか。そこが難しいところだという気がする。

 新しいありかたにおいては、みんなが平等に楽になるのだから、それでよいではないか。または、めぐりめぐってみんなに益になるのだから、つべこべ言わずに従うべきである。そういうふうに言うこともできるだろう。たしかにその言い分には正しい部分があるとは思うんだけど、全面的には腑に落ちないこともたしかだ。どこかに新しく不平等がおきてしまうのであれば、それはそれで(できればということではあるけど)なるべく正されるのがのぞましいのではないか。

 みんなが楽になるのなら、それに越したことはないのはまちがいがない。また、みんなに益になるのであれば、その恩恵が広く行き渡るわけだから、よいことである。そういった点については、より合理的になってゆくのがあるわけだから、理解が進んだほうがよい面がある。そのうえで、そうした合理的なほうへものごとを進めてゆくのとは別に、もっと根源的に、みんながなるべく平等になるためにはといった視点ももてればよいのかなという気がする。やや大げさかもしれないが、新しい犠牲者が多少なりともおきてしまうのであれば、それはどこかにまずいところがあると見なすこともできなくはない。