未来の世代への忖度

 終戦(敗戦)記念日の 8月 15日の前に、談話を発表した。これはいまから 2年前のものだから、話としてはやや古いものであり、それを今引っぱり出してくるのもちょっとどうかなというところはあるかもしれない。そのうえで、安倍晋三首相による 2015年の談話のなかで、(今さらながら)引っかかるところがあるなというふうに感じた。

 それは、以下の箇所である。これからの日本人について、あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。正直いって、この箇所については、ちょっと違和感を感じてしまうところがあるのである。なんとなく引っかかってしまう。

 いっけんすると、子や孫やその先の未来の世代にたいして、おもんばかっているかのようにも受けとれないではない。しかしはたして本当にそうなのだろうか。というのも、未来の世代は、(近隣諸国にたいする)謝罪を喜んでおこないたいという気持ちを抱くかもしれないからである。その気持ちを抱く可能性はゼロとは言い切れない。

 かりに、近隣諸国にたいして謝罪をするのが義務であるのだとしても、未来の世代がその義務を嫌がるとはかぎらないわけである。そのころには、近隣諸国との関係のありかたが変わっていて、お互いに受け入れて受け入れられてといったように、すごく友好的になっているかもしれない。そうであれば、謝罪をすることによって、その友好のきずなをさらに強めることにもなりえる。

 まずひとつには、未来の世代と一と口にいっても、そのなかには色々な人がいるわけだから、あまり一様なものとしてとらえるのはどうなのだろう。それにくわえて、現在のわれわれの(代表の)気持ちのもちかたを、未来の世代に当てはめるのは、ともすると未来の世代にたいして迷惑にあたるのではあるまいか。

 義務というのはたしかに見かたによっては負担になるものではある。なので、謝罪の義務を追わないですむようにしたほうが、そのほうがうれしいだろう。幸せだろう。こうした見なしかたは、今のわれわれ(の代表)がそう見なしているだけであり、未来の世代からすれば、よけいなお世話だとされてしまうおそれもゼロではない。

 未来の世代へ謝罪の宿命を負わせてはならないというのは、どちらかというと自由主義による歴史のとらえ方といえるかもしれない。それは負荷なき自己(集団)のありかたである。そうではなくて、共同体主義でいわれるような、負荷をもったありかたのほうがより具体的な態度といえるだろう。そうはいっても、これはちょっと単純な 2分法で分けすぎかもしれず、またそれぞれの好みにもよるかもしれない。

 負の歴史というのは一つの負荷であり、汚(けが)れみたいなものであるかもしれない。しかしその汚れは、不浄とまではいえないのだとすれば、そこまでやっきになって否定することはいりそうにない。汚れというのは両面価値をもっていて、必ずしも陰性の価値をもつだけとは言い切れないのもたしかである。そこには変革のきっかけがあり、創造性もありえる。うまくプラスに転化しうることもできるとすれば、そうしたほうがよいだろう。簡単な話ではないかもしれないが。