ダウトのラベルを貼る

 向田邦子氏に、「ダウト」という短編小説があった。これは、トランプのゲームにあるダウトという遊びが主題として関わっている話である。そこでふと思い返してみると、このトランプのゲームを過去においてじっさいにやった記憶はないのだけど、どこかで見かけたことくらいはあったかもしれない。

 このトランプのゲームは、現実においても当てはまるところがありそうだ。たとえば朝日新聞社が嫌いな人がいるとすれば、その人は、朝日新聞をほぼまるごとダウトであると見なしていることになる。そういう先入見の目をもってして見ている。

 トランプのゲームであれば、札に数字が書かれているわけだから、嘘か本当かというのははっきりと確かめやすい。しかし現実におけることがらであると、数字のように割り切れることは少なく、単純なありようをしてはいない。いっぽうに送り手がもつ立場があり、たほうに受け手がもつ立場があり、その両者のかね合いによって意味が定まってくるところがある。

 現実においては、何かに向かってダウトと宣告すれば、たいていはダウトと見なすことができる。というのも、多かれ少なかれ、たいていのものごとにはダウトが含まれていることがありえるからである。ダウトの含有率が 0%の完全に純粋なものを世界のなかで探して見つけることは至難のわざだろう。何であっても、どこかに少しくらいは不純さがあるものである。

 ダウトの範ちゅうの中に、さまざまな価値をもつものがある。受け手にとって都合のよいダウトは、受け入れられやすい。しかし都合の悪いものであれば、退けられたり拒まれたりする。陽性の価値をもつとされるものと、陰性の価値をもつとされるものとのちがいである。そこには価値意識がかかわってくる。

 何かについてダウトだと宣告すれば、たいていは当たってしまう。極端な話でいえば、言葉というのは嘘だから、言葉によって説明されたものはすべてがダウトだというところもなくはない。ただこう言ってしまうと極論になってしまうおそれがある。くわえて、自己言及の矛盾にもなってしまいそうだ。

 なぜたいていのものごとがダウトだと見なしえるのかといえば、それは真理との関わりがあるからだろう。哲学者のカール・ポパーは、真理は開示することが不可能であると言っているそうだ。真理の開示不能性である。これを開示可能であるとするのはまちがいとなる。かりに真理があるとしても、それをありのままの形で示す(show)ことはできない。ただ語る(tell)ことができるだけだという。語るさいには、送り手がいくら万全を期したとしても、どこかに不備がおきてしまうことがありえる。

 すべてがすべてダウトだと見なしてしまうのは、合理的な態度だとはいえそうにない。また現実的でもないだろう。そのうえで、これはダウトではなく、まぎれもない本物だ、と見なすようなものがありえるけど、そういうものにこそ、あえてダウトだという目を向けないとならないのではないか。たまにはそういうふうに、見かたをひっくり返すような機会があってもよい。

 まったくダウトをもたない人というのは、現実には存在しないのではないか。たとえば、生まれてから一度も嘘をついたことのない人などいるのかといえば、(そう宣言する人はいるかもしれないが)いぶかしいところである。そうしてみると、人はみなダウトを分有しているということもいえそうだ。真っ赤な嘘といったような明らさまな人はあまりいないだろうが、いろんな色を持つなかに、赤(ダウト)が一部に含まれている。純粋な白として、まったく赤が含まれていないような人は、現実にはちょっと想像しづらい。

 経済では、お金によって物やサービスを売り買いしている。そこで使われる貨幣や紙幣は、もとを正せばたんなる金属や紙きれにすぎない。なぜそうしたものに信用や価値がおきるのだろうか。全部がはったりでありつくりごとだというわけではないだろうが、少なくともそこには半分はダウトが関わっている。資本主義においての貨幣や紙幣のもつ価値とは、半分は幻想によって成り立つ。幻想と現実との合金(アマルガム)のありようをしているのだという。物神視(フェティシズム)もそこにははたらいている。