文脈による度合いの高めな、暗示的なポスター

 私(は)日本人でよかった。こうした文言が書かれたポスターが、京都にはいっぱい貼られているそうだ。駅の近くにいっぱい貼られているのかな。ポスターには女性が写されていて、頬に日の丸の赤いマークがつけられている。下のほうには、誇りを胸に日の丸を掲げよう、との文言もある。このポスターは、神社本庁が主として推進しているものだという。2013年から貼られているそうだ。

 まず、私は日本人でよかったという文言は、あくまでもこのポスターに写されている女性の、個人的な感想にすぎないのだろうか。とすると、この感想を演繹して普遍なものにすることはできそうにない。サンプル数が 1しかないので、軽んじてしまうこともできる。

 私は日本人でよかったというのは、結論だと思うんだけど、その根拠や理由が示されていないと、何ともいえないところがある。なぜ根拠や理由を少しでもよいから示さないのだろうか。たんに結論だけを言われても、受けとるほうとしてはとりたててどうしようもない。このポスターに写されている女性に何か特別な権威でもあれば別かもしれないが、そういうわけでもなさそうだ。

 私は日本人でよかった、というのは、一つの言明である。この言明がたんにそれだけで正しいというのは導かれづらい。もしそうして導いてしまうようであれば、宗教的だといってもさしつかえないだろう。この言明にたいして、反対するような言明もあったほうがのぞましい。でないと、反対する言明を認めないことになる。これは否定的な契機の抹消であり、隠ぺいにほかならない。

 自由主義の観点からすると、私は日本人でよかったという人がいてもよいし、そうでない人がいてもよい。それは個人の好き好きであり、歩んできた生き方のちがいも関わってくる。そうしたばらばらなありかたではなく、かくあるべしという規範をかかげるのもよいだろうけど、あくまでもそれぞれの人の意向を尊重したほうがよいのではないか。そのほうが全体としての効用はどちらかというと高くなりそうだ。

 誇りというのを持とうとするのもよい。しかしときには、そうした誇りをあえて捨てることができるような勇気を持てればなおよいのではないか。そうした勇気が持てたほうがより立派だという気がする。こうした勇気というのは、対他的な関係が関わってくるところから求められてくるものである。誇りを捨てるとまでは行かずとも、他からの指摘によって、うまい具合に自分を修正するといったありかたがとれれば、硬直した教義(ドグマ)による教条主義におちいらないですむ。

 誇り高さというのはおおむね受け入れられやすいが、逆に誇り低さといったのであれば、受け入れられづらい。そうした面はあるわけだけど、その受け入れられづらいところに、倫理的または存在論的な勇気が発揮されるものだといえそうだ。誇りが高いことによる戦闘(抗争)よりも、誇りが低いことによる平和のほうが、のぞましいこともある。そこについては、東アジアにおいてはとくに、(小)中華思想なんかもかかわってきそうだから難しいかもしれない。