管理の強化と、(個人の)自由の喪失

 保護されることをのぞむ。しかしそれには、監視や観察というのがついてまわる。そこがやっかいなところである。たとえ保護することがいるのだとしても、監視や観察されることもついてきてしまうのであれば、それはうとましいことでもある。監視や観察されるのは、干渉されることでもあり、それは(消極的)自由の侵害にほかならない。

 できるだけ世の中全体を管理しやすいようにする。これが、権力者がのぞむことであるだろう。管理しやすいほうが、少なくとも権力者の側にとっては有益にはたらく。都合がよい。不透明であるよりかは、透明さがきちんと行き渡っていたほうが、統制がうまくきく。それは管理社会と化すことを意味するものである。他律による支配を許す。

 透明化するというのは、一見すると響きがよいものだけど、必ずしもよいものであるとはいえそうにない。透明であるというのは、単一体(シンプル・ビーイング)を想定しているわけだけど、そのようなものは現実には存在しづらい。人間は心(または頭)のなかでいろんな要求をあわせ持っていて、そのつどやりくりしながら生きている。そうした複合性をもつ。不透明であるというわけだ。現実は科学のように何か一つの単純な要素には還元しづらい。

 図と地ということでいうと、保護されることを重んじるのは、それを図に当てはまることになる。そのさい、監視や観察は地になる。しかしこれは固定的なものではなく、保護を地として、監視や観察を図とすることもできる。これは視点をどこに置くかによってちがってくることだ。

 監視や観察をされるのを嫌なものとするのは、そこに何かよこしまな理由があるからである。この見なしかたは、必ずしも的を得ているとはいえそうにない。というのも、保護をよしとするのは、一見すると正当だが、それは一元論にほかならない。この一元的なありかたの裏に、別の思わくがはたらいている可能性がある。そこを批判することはなくてはならない。この批判を欠くと、権力を無条件に正当化するイデオロギーにつながる。

 保護されたいというのは、決してまちがった望みではない。しかしそれと同時に、監視や観察をされたくないというのも、決してまちがった望みとはいえない。できるだけ他から干渉されないで、(消極的)自由を保ちたいというのは、無理からぬことである。そうした意向をのぞましくないものと見なすことは、父権主義的な押しつけになりかねない。

 身近に危険や脅威が迫っているのだから、保護を強めようとするのは、理にかなっているところがあるのは否定できない。その理はあるわけだけど、一つ問題にできるのは、保護というのが何を意味しているかの点だろう。保護というのは一見するとよき光明のようなものだが、これは暗黒(ダーク・サイド)に転落することもなくはない。その暗黒に転落する可能性は決して低くはない。だから、それを危惧することは杞憂であるとはいえず、理があることもたしかだろう。

 保護という名目を、信用してうのみにしてしまいすぎるのも、それはそれで問題だと言えそうだ。もちろん、名目を信用することがすべからく間違いであると断じることはできない。ただそれは、よくよく検討して徹底的に調べあげたうえでのものであるならよいが、そうでないのならたんなる軽信におちいるおそれがある。こうした検討や調査の過程を十分に時間をかけてやったほうが、より現実的な結論が得られやすい気がする。

 犯罪者をとりしまるのもいるのだろうが、それと同時に、そのように仕立てあげられてしまうのもあるから、それが心配だ。そうはいっても、いったい何を心配することがあろうか、との批判もなりたつ。むしろ野放しになっているほうが心配ではないのか。たしかに、まったくの野放しになっているのだと危ないわけだけど、それは極端な話である。

 仕立てあげるというのは、ちょっと試みにやってみるといったようなことにはなりづらい。それよりも、何かしっかりとした基礎づけのもとに、方法としておこなわれる。そのさい、はじめの基礎づけがまちがうことがある。こうなると、結果としてできあがることもまたまちがうことになる。そこに確証がはたらきやすく、反証がはたらきづらい。たとえば、テレビなんかで、何々容疑者と大々的に報道されれば、誰しもがそのような目でその人を見てしまうものではないか。本当は罪がなかったとしても。

 治安をよくすることも大事ではあるけど、そのさい、効率を重んじてしまうのには警戒することもいる。効率的にものごとを進めてゆくのは、計算的な理性のはたらきだ。一見すると、計算することによって、見通しがよくなるかのような気もするが、それは計算不可能だったり、非効率だったりするようなものを切り捨てることによって成り立つ。したがってそれはたやすく野蛮化に転落して、暴力に行きつく。排斥するほうへ進む。

 近代において、こうした計算的な理性にとくに重きが置かれるようなんだけど、それにたいする抑制を多少なりともかけたほうがよさそうだ。方法によって揺るぎないものを求めてしまうところはあるが、そうではなくて、非方法によるありかたというのもあるのがのぞましい。それは試みとしてのありかたであり、できるだけ柔軟なふうにやってゆくものだろう。正確さをいちばんに優先させるのではなく、それをあるていど損なってしまいはするが、その代わりひどくぶつかり合ってしまうことを防げる。

 戦前や戦時中は、国というのを促成的に性急にこしらえてやってゆかないとならなかったから、そのさいに非国民という(いわれなき)負のしるしがつくられて、当てはめられてしまった。これは今からふり返るとまちがいだったわけである。その点をふまえると、今の時代は、そこまで差し迫った状況にあるとは特にいえそうにない。しかし、人によっては、できるだけ性急にことを進めるべきだ、との意見もある。ただそうすると、戦前や戦時中のように、また非国民といったような陰性の価値のしるしがつくられてしまいかねない。これをくり返すべきではないだろう。

 あまり偉そうなことを言える立場にはないのだが、性急さや直接さというのはなるべく避けるべきだという気がする。あえて時間をかけて、労力や費用をかけるというのもありではないか。少しでも気をゆるすと、たちまち労力や費用をかけないで、決めつけてしまうような、説明のエコノミーの原理がはたらく。説明を省略してしまう。この原理に従うのではなく、破ってしまったほうがときにはよい。加速度ではなく、遅速度を用いるといったあんばいだ。