戦争の否定

 戦争を禁じることによる平和のありかたがある。このありかたは、あらためて見ると、ひと筋縄では行かないところがありそうだ。もし、ごく素直に、戦争を禁じるようにして、それで平和が築かれるのであれば、それに越したことはない。しかし、ことはそう単純には運びそうにないのもたしかである。

 なぜことがそう単純には運ばないのだろうか。ひとつには、戦争を禁じることへの、斥力(せきりょく)みたいなのがはたらくことによりそうだ。反発をまねく。戦争を禁じることが一つの極であるとすれば、それにたいしてもう一つの極ができあがる。これによって両極のありかたになるわけだ。

 戦争を禁じるのは、反戦の立場に立つのであれば、ごくあたり前のことである。そこに疑問をさしはさむところはとくに見あたりそうにない。そのうえで、たとえば、学校なんかで、子どもにたいして、自分たちの国は戦争を禁じています、と教えたとしよう。その教えを、子どもたちは素直に受けとるかもしれない。しかし問題は大人たちにあるだろう。これをまちがった洗脳教育だとしたり、時代錯誤だと見なすこともできるのである。

 戦争や、それにまつわることを禁じるのは、一つの極ではある。しかし、その極だけでは話は終わりそうにない。もう一つの極を生み出してしまう。これは、ある面では、人間のもつ尺度を超えたところにあるような、自然史的な過程といえるだろう。

 戦争というのは一つの蕩尽であり消尽であるとされる。そうであるわけだから、それにとって代わるような、別の蕩尽や消尽をすることで、それにいたるのを防ぎ止めることができるかもしれない。

 たとえば、食べるものにも困るような、物が不足した貧しい状況がある。そうしたときには、あんがい争いやいさかいというのはどこかで歯止めをかけられる面がある(明日への希望があれば)。貧しさの克服という大目標を、みんなで共有しやすいからである。そうしたからっぽの世界をなんとか克服して、物であふれたいっぱいの世界になると、記号がものを言うようになる。記号的な世間話がとり交わされ、負のしるしをもつ者がやたらに叩かれるようになってしまう。そこには歯止めがのぞめそうにない。記号による欲望には物理的な限度がないからだ。

 今はいっぱいの世界であるとして、そこからふたたびからっぽの世界に簡単に戻ることはできない話ではあるだろう。非現実的だ。そのうえで、そもそもからっぽの世界とは、いったい何を示唆しているのだろうか。それは一つには、からっぽであるがゆえの豊かさみたいなものであり、また逆に、いっぱいであるがゆえの貧しさといったことはありえそうだ。もし、いっぱいであるがゆえの貧しさを抱えているとすれば、よりいっそう今よりもいっぱいになろうとしても、たんに貧しさが加速するだけなのではないか。何か擬似的であったとしても、多少なりともからっぽになるための手だてがいるのかもしれない。その手だてとは、(たんなる消費ではないような)蕩尽や消尽としての消費ということになりそうだ。