前望的に立ち止まる

 日本のテレビドラマのありかたに、もの申す。デーブ・スペクター氏は、海外のさまざまなテレビドラマと比べて、日本のものはそれと質的に肩を並べるにいたってはいないとしている。なので、一度すべてのドラマを、2年間ほど、テレビで流すのを一切とりやめるようにする、大胆な決断をするべきだ。そしてそのとりやめている 2年間のあいだに、海外のすぐれたドラマからよいところを吸収して、学習する。そうすれば、質の高いものを生み出すことができるようになる。

 デーブ氏のこの意見の投げかけは、個人的には賛同できるものである。とはいえ、じっさいに実行するのは難しそうである。日本のテレビドラマをおもしろく楽しんでいる人もいるわけで、それは視聴率に反映されるものだろう。視聴率がとれているということは、商売として成り立っていることになる。最低限のハードルはクリアしているわけで、さしせまった危機の感覚はもちづらい。とりあえず動きつづけているのであれば、それをもってして安心できるところもある。静止することへの不安もある。

 海外と比べて、その優れたものと質的に肩を並べるにはいたっておらず、くわえて視聴者を無視して配役などを決めてしまっている面もある。こうした問題点が日本のテレビドラマにはあるらしい。あまり日本のテレビドラマばかりを責めるのは酷ではあるが、これはドラマにかぎらず、他のものにも当てはまることではないかという気がする。

 経営という観点でいえば、今はこのようになってしまっているのではないか。あるものについて、満足している人たちと、不満をもっている人たちとが、分裂してしまっている。満足している人たちだけで成り立っている小世界がある。いっぽう、不満をもっている人たちは、どこか別なところに行ったりするので、その声が反映されづらい。不満の声があまり反映されないので、小世界において、経営の決定的な危機というまでにはいたらない。

 進化という視点がいちじるしく欠けてしまっているような気がする。個人的には、進化してゆくべきだというよりも、むしろそうしてゆかなければならない(ゆこうとしなければならない)、というふうに見なしたい。なので、できるだけ、高次学習の機会を進んでもつようにしたい。そうでないと、同じことのくり返しにおちいる。いずれ立ち行かなくなる。知らずうちに、ずるずると後退していってしまう。

 何でもかんでも進化すればよいのかといえば、そういうわけではないだろう。たとえば文化なんかでは、保守的な姿勢のほうがよいこともあるのはまちがいない。そこは価値のもち方において、何を変えないで残すのかにこそ価値があるものもあるだろう。見きわめをすることがいる。

 そうした部分もあるが、万物は流転する、というのも言われている。人間の体では、日々細胞が入れ替わっている。1年くらい経てば、骨なんかをふくめて、すべての体の成分が入れ替わるらしい。そうしたことをふまえると、何か変わっていったり、ひとところにとどまらないようにしてゆくことが、ひいては自由につながるのではないか。

 別にひとところにとどまりつづけてもそれはそれでよいわけだけど、たとえば定住というありかたについても、それが人間の本質というわけではない。むしろ動くところに本質があるとすらいえる。なので、進化せずに停滞するようだと、不自由になるという面もあるのではないか。あくまでも理想ではあるが、そこについては、弁証法的に止揚(アウフヘーベン)みたいなのができればよさそうだ。

 先において、えらそうに進化をするべきだなどと言ってしまったわけだけど、これは個人の奮起をうながしたいがためのものではない。個人の奮起というのは、すでにいたるところでなされているものだという気がする。また、進化にとり残されるなだとか、時流に乗り遅れるな、と言いたいのでもない。そうではなくて、現状追随主義(ポジティビスムス)でないふうにできたらよい。ポジによるだけでなく、ネガによる視点に立ち、現状の批判を積極的にやってゆくようにする。

 他の国なんかから、そのよいところをどんどん学んで、うまくとり入れられたらよさそうである。現状のありかたというものに、必ずしもこだわらなくなれればのぞましい。そういうふうにして、ビビンバ的な、雑種的(ハイブリッド)なありかたがとれたほうが、行き詰まるのを少しは防げそうだ。