条件つきではないものの必要性

 傾向性か義務か。傾向性というのは、自分の利害だとか感情の傾きなんかをさすという。そういう自分の思わくではなくて、そうしたものから切り離されたものが義務であるとされる。この義務というのは、条件的なものではなく、無条件的なものである。条件的というのは、たとえば、自分に有利になるから決まりを守ろう、だとかいうことである。そうした頭(または心)での計算によらないあり方が、無条件的なありようだ。たんに守る、みたいなふうである。

 なぜ、傾向性をよしとせず、義務をよしとしたのだろうか。または、仮言(条件)命法をよしとせず、定言(無条件)命法をよしとしたのだろうか。専門家ではなく、あくまでも生半可で中途半端な素人だから、かんちがいをしているおそれが高い。そのうえで、哲学者のカントがこうしたことを説いたそうなんだけど、あらためて見ると、すごいことだなあと感じたのである。

 そのすごいなあと感じた点は、相対主義にかかわっている。義務をよしとして、定言命法をとる。それは、傾向性を退け、仮言命法をよしとしないことだ。こうしたありかたをとるのは現実にはひどく難しいだろうが、もしそれができれば、相対主義のあまりにも不毛な悪循環を断ち切ることができるのではないかという気がする。十把一からげではなく、なかにはよい相対主義もまちがいなくあるだろうけど、何でもありみたいなふうになってしまうといささかまずい。

 たとえば、それぞれの傾向性をよしとしようではないか、との主張が成り立つ。あるいは、それぞれの仮言命法をよしとしようではないか、との主張も成り立つだろう。こうなってしまうと、極端には、悪い相対主義におちいらざるをえない。そこから、詭弁が巷にはびこってしまうようになる。お前には言われたくはない、みたいなことだ。詭弁が巷に広くはびこってしまえば、収拾がつかないような事態になってしまいかねない。

 とらえ方がもしかすると間違っているかもしれないのだけど、たとえば人権なんかを見るにしても、そこには無条件的なところがある。生まれながらの自然的権利であるためである。しかし、こうした自然権を、相対化または無化してしまうこともできる。あるいは、権力に都合がよいように、支配と被支配の図式を隠ぺいするような形で用いられてしまう。

 人権をいたずらにふりかざして話をしてしまっているとすれば、それはまことに申しわけないのだけど、なぜそれを持ち出すのかといえば、自然権である人権は、条件的なものではないからである。無条件的なものであると言ってよい。であるから、なにか条件をつけて、それを満たしていないから、侵害してもよいということにはならない。

 そうはいっても、絶対に批判や非難も何もしてはならないというわけではないだろうが、まったくのゼロにはならないというのが味噌である。きれいな手(クリーン・ハンズ)の原則が適用されないわけだ。こう言うのはなんだが、汚い手の人(汚い手と見なされている人)にもきちんと権利がある。というより、多かれ少なかれ、何らかのかたちで皆の手は汚れていると言ってもよい。暴力性や攻撃性は、人間がこの世に存在するかぎりついてまわる(悟りに達した人を除いて)。こうして見てみれば、相対主義の詭弁みたいなのを封じられることが若干のぞめるけど、しかしじっさいにはあまりうまくは行かないかもしれない。