読み書き(リテラシー)について

 教育は、基本として、読み書きとそろばん(四則演算)くらいができさえすればよい。じっさいの教育では、それだけではなく色々なことが教えられていて、それはそれで大切なことではある。昔の寺子屋なんかだと、核のようなものとして、読み書きとそろばんくらいに内容が絞られていたのだろうか。

 学校で教えられたことは、そのごの人生の中では、ほとんど忘れられてしまうことが少なくない。なぜかというと、じっさいに教えられたことを使う機会がほとんど無いせいだろう。使うことがないことを頭に詰めこまれてしまっているところがある。しかし、すべての子どもには無限の可能性があるという(大)前提があって、どんな可能性が秘められているのかが定かではないために、いっけん無駄なことのようでも、いちおう意義があるのだとの説明も成り立つ。

 読み書きとそろばんというのは、基本のきであるし、初歩のものにすぎない。しかしながら、あらためて見ると、そろばんはともかくとして、読み書き(リテラシー)というのはあんがいできているようでいてできていないふしがある。世界でおこるできごとや事件にたいして、それをきちんととらえるためにいる条件みたいなのがある。そうした条件をきちんとあらかじめ備えているのかというと、けっこう危ういものだといえそうだ。

 そんな条件など、あらかじめもっている必要などはとくにない。色々なものごとについて、多少の判断を下すくらいのことは、誰にだってできることである。生きてゆくなかで自然と身につけた情報と経験を用いればよいのだ。それに、生まれもって備わっている感性というものがある。そうした感性を十全にはたらかせれば、かりに脊髄反射のようであったとしても、判断がまちがうことはあまりない。直感を信じるようにすればよいのである。

 あまり正確にはわからないのだけど、西洋における、イギリス経験論と大陸合理論のちがいみたいなのがあるかもしれない。ものごとをとらえるさいに、しかるべく前提知識や条件みたいなのを備えておくことがいるとするのは、イギリス経験論に当たるだろう。いっぽう、そうした前提知識や条件なんかが不要だとすれば、それは大陸合理論に当たりそうだ。

 どちらのあり方が正しいのかというのは、一概には言い切れないものだろう。くわえて、かなり大づかみに分けてしまっているために、きちんと的をえているとは言えないかもしれない。そのうえで、読み書き(リテラシー)の取得をあまりに重んじてしまうと、それを身につけるための労力や費用が多くかかってしまうようになる。既製品では間に合わず、自分ならではの必要性があるのも無視できない。自分にとってとくに意味があり、必要なことは、自分だけにしかわかりづらい。

 読み書き(リテラシー)の取得をまったく軽んじてしまってよいのかというと、それはそれでまた別な問題がおきてくるおそれがある。読み書きの取得というのは一種の迂回みたいなものだと言えるとすれば、そうした迂回をまったく経ないで最短距離を行こうとする。こうなると、直接的現前であったり、近道をとろうとしかねない。しかし、文化というのは、こうした直接性や近道を禁じるところに成り立つところがある。

 読み書きの取得についての労力や費用がかかりすぎるようだと、それについてのあきらめみたいなのが生じてしまうのかもしれない。ゆえに、読み書きの取得という迂回を経ないで、それをかぎりなく無くそうとする。こうしたふうになると、かぎりなく読み書きが必要最小限度になるおそれがある。現実の複雑性にたいして、できるかぎりの単純化をするようになる。この複雑さと単純さのどちらかにかたよると、危ないことになるのではないかという気がする。

 何かを象徴としてとらえてしまうと、それがひとり歩きしてしまいかねない。象徴と化してしまうと、部分が(邪魔なものとして)切り捨てられてしまう。部分がなくたって、肝心の本体である幹があればそれでこと足りる。そのように見ることもできるが、しかしたとえとるに足りない枝葉のように見えても、そこが大きな意味をもつこともなくはない。神は細部(ディティール)に宿るとも言われている。中心となる言明にだけ目を奪われてしまっていると、細部がないがしろになりかねない。

 読み書きの構造みたいなのがあって、その構造のちがいというのが人それぞれにあるのではないか。癖みたいなものである。この構造は、ふつうは補強されることはあっても、補正されることはほぼない。補強する機会は日常でいくらでもあるが、補正する機会というのは非日常のごくかぎられたものによるだろう。構造論において、主体というのは、そうした構造のなかのたんなる一部分または結節点にすぎないとされる。構造のにない手である主体は、一つの痕跡でもある。

 われわれは、あまりに当たり前になってしまっているふるまいについて、あらためて見直すきっかけをもちづらい。であるから、たまには自分のよって立つ構造みたいなのを意識することがあってもよいのかも。あまりに当たり前となっている自分の日常におけるふるまいというのは、どうしても意識することが無いものだろう。そうであるからこそ、そうしたところに持ち前の調子だとか傾向(色)が出やすいのかもしれない。偉そうなことを言ってしまったかもしれないが、できるだけ(自分ではなく)他者からの触発を多く受けてゆくようにできればのぞましいと感じている。