安全を期すことにおける、弁証法的な光と影の反転(啓蒙の野蛮化と、理性の頽落化)

 安全ということにかんしては、安全性が高まるか低いままかといったことがある。低いままであるよりかは、少しでも高まったほうが、それに越したことはない。そうしたことが言えそうだ。しかしじっさいには、そのように単純なあり方をしていそうにはない。

 意思決定をする主体の利益というのがかかわってくる。もし自分が利益を失いづらいのであれば、どんどんとリスクをとっていってしまう。なぜそうしてリスクを愛好してしまうのかというと、自分が失う利益が無いか、もしくは少ないからである。逆に、自分が失う利益がもし大きければ、リスクから遠ざかろうとして、回避的になる。

 意思決定をになう主体の利害という観点をふまえることがいる。なにか勇ましいことを言うのは、その裏には、自分が利益を損なわないからという理由による。そのような構造がありえる。こうした構造のほかにも、またちがった構造もあるのだというのを無視することのないほうがよい。

 威勢のよいことを言って、それで受けがよくなるのだとしても、その手法はあぶないところがある。どのような時代においても、たいていは、威勢がよくて勇ましいことを言うのは、受けがよいし通りがよいものであると言われる。逆に、臆病なことを言うのは受けが悪いし通りも悪い。軟弱だと見なされてしまう。

 認識を導く利害関心というのがあるそうだ。これにおいてやっかいなのは、肝心の利害関心というのをかんちがいしていたり、間違ってとらえているおそれがある点である。あるものについて、これは利になるとか、これは害になるといったのを、かんちがいしたり間違ったりしてとらえていると、そこから導かれる認識も大幅にずれてくる。ずれたままで視点が固定化されて、かたくなになることもある。そうであるよりかは、できるかぎり柔軟であったほうがよい。

 いったいに利と害というのは別々ではなく背中合わせになっていることが多い。したがって、それらを別々に見なすよりかは、同じものの別な面として見たほうがよさそうだ。どちらかを強調するのだとしても、それは構造や文脈のちがいでもあるから、一方が完全に正しかったり間違っていたりとはなりづらい。

 いざとなって、何かよからぬことがおこったさいに、そこで追加的にふりかかる利益や害は、人によって異なってくる。そのちがいを無視することはまずい。みんなに平等に利益になるわけではなく、そこに格差(ディバイド)や分断があるとすれば、その溝を隠してしまうのではなくて、逆に光を当ててゆくのがよさそうだ。