ビールと水素水

 ビールはただの水ではない。それと同じで、水素水もただの水ではない。そうした説明がされていた。そもそも、ただの水というのは何をさしているのだろうか。というのも、もしただの水があったとしても、これはただの水ではないんですよ、という説明は成り立つ。そう言われたら、(人によっては)ただの水ではない気がしてくるのではないか。ただの水を一般であるとすると、ただの水ではないのは特殊にあたりそうだ。

 特殊な水というのは、水への信仰みたいなのと関わってくるものなのだろう。ふつう水といえばたんに水分の補給に役立つものである。しかしそれ以上の何かが加わると見ることで、特殊さが出てくる。特殊さが極まれば、奇跡でさえおきるかもしれない。

 ビールであれば、そこにはアルコールが含まれているから、体のなかでは毒としてはたらく。その毒は肝臓で解毒される。効果としては、酔いが生じてくる。酔いやすさは人によって異なり、体が小さい人のほうがわりあい酔いやすいと言われている。

 ビールと水素水を比べることははたして妥当なのかな。水分という点で見るとこの二つは同じものである。しかし、そういうことであるなら、たとえばビールと泥水とを比べることもできる。泥水もただの水ではない。でもこれはふつうは飲もうとはしないから、ちょっと意味あいがちがってくるかも。ただの水ではないものの中には、泥水も含まれることになるから、その範ちゅうの中にはいろんな価値があり、中にはマイナスなものもあるし、ゼロ(じっさいにはたんなる水)なものもまぎれこむ。

 水素水は飲んだことがないからよく分からないが、何らかの効果があると期待されるものだろう。しかしその効果というのは、基本としては因果関係が関わってくる。もしかすると、水素水には何の効果もなく、まったく無意味であるおそれもなくはない。水分の補給以上の意味はとくに無いということである。客観としてはそうだとしても、主観として意味づけすることもできる。これは水素水にたいして意識の志向性がはたらいていることによる。そうなると、かりにただの水であっても、ただの水ではないということになるわけだ。