割って入りかたの工夫

 ヘイトスピーチのデモにたいして、カウンターがおきる。その両者のあいだに、警察が割って入る。両者のあいだでぶつかり合いがおきて、もめごとになってはいけない。そのさい、警察は、ヘイトスピーチのデモをしている人たちではなくて、カウンターの人たちのほうに顔を向けて、一列になって止めに入る。

 ヘイトスピーチをしている人たちをもし火だとすると、それにたいしてカウンターをするのは、油を注ぐことになりかねない。たとえ水をかけようとする気持ちがあるのだとしても。だから、挑発になってはいけないとして、カウンターをしている人たちを警察はいさめる。しかしこれだと、カウンターをしている人たちの腹の中の気持ちがおさまらない。なぜ、まちがったことをしている人たちではなく、それを止めようとしている自分たちに待ったをかけるのか。逆ではないのか、ということだ。

 ふさわしい例えかどうかはわからないが、学校の教室で、授業中に隣の席の生徒からちょっかいを受けて、ちょっかいをしたほうではなく、されたほうが先生から(静かにしろ、などと)しかられてしまう、というのに似ているかな。泣きっ面に蜂のような。ただ、カウンターをする人たちは、直接にヘイトスピーチの対象になっているわけではないだろう。止めに入るという、よいことをしようとしているのに、あたかも悪いことをしようとしているように受けとられてしまう。理に合わない、という心境だろう。

 警察は、一列になって止めに入るさいに、カウンターの方にだけ顔を向けてしまうと、カウンターの人たちを心理的に威圧することになる。なので、一人はカウンターのほう、その隣はヘイトスピーチのほう、というふうにして、交互に反対側を向くようにすればよいのではないか。ちょっと変な光景かもしれないが、このようにすれば、カウンターの人たちの気分を害することも少ない。