国による開発

 北朝鮮をなんとかする。アメリカはそれをもくろんでいるらしい。放っておくわけにはゆかない。どんどんと過激になっていってしまうからである。北朝鮮は、核ミサイルを持とうとして、それをつくろうとしていると言われる。何とかしてそれに歯止めをかけないとならない。

 国が、何を開発するのに力を入れるかというのにちがいがある。ふつうの国であれば、たいていは経済の開発に向かう。しかし北朝鮮では、これが核の開発に向かってしまうのである。ほかの国でも、核を持っているところはあるわけだけど、それはあくまでも経済力をつけるのと並行するような形になっているのが大半なのだろう。

 たとえ経済の開発を主とするにしても、そこに問題がないわけではない。市場原理は自由な取り引きのためになくてはならないし、制度としてまちがってはいない。しかし、人々のあいだに格差を避けがたく生む。それの解決がされないままであれば、不平等が幅をきかす。平等なありかたとはほど遠いと言わざるをえない。

 経済がたとえ成長したり発展したりしても、その使い道にも問題がありそうだ。軍事に使うのもある程度は必要かもしれないが、それで安心が買えるとは必ずしも言えそうにない。ここは価値意識がからんでくるところだから、一概に決めつけるようなことを言ってはまずいこともたしかである。そのうえで、使い道の正しさといった点にも、修正を加えながら気を配ることがいりそうだ。

 経済における物(物質的富)や、防衛のための武器なんかをつくるのにおいては、それはひいては物象化をまねく。経済というのは数値によって動くものでもあるから、それは数量による計算的な思考によって成り立つ。いかに効率よくものごとを進めてゆけるかが重みをもつわけである。そこにおいては技術がものを言う。すると、理性が道具化して野蛮になってしまうという。こうした道具化による野蛮さが行きすぎるのを避け、どこかで止めることがいる。

 他者との意思疎通では、象徴である言葉が交わされ合うわけだけど、それはしばしば混乱が常となる。不正確なふうになる。これは、フランシス・ベーコンにおいて、市場の偶像(イドラ)と呼ばれるものだという。偶像をもてあそんでしまっていることになる。人々は、ふつうに意見や主張を言い合うわけだけど、それは商品語という形をとるとされる。人々があまねく商品語をしゃべるのは、一つの頽落であるとしてさしつかえない。資本主義という点でいえば、その強い魔力にすっぽりと染まってしまっている。あまり他人のことは言えないわけだけど、こうしたあり方にはまり込んでしまうのではなく、そこからなるべく脱するように努めることもたまにはいるだろう。